──いつからだろう。妻を抱かなくなったのは。
倉田資郎(くらたしろう)は、ダイニングテーブルで朝食を食べながらふと、カウンターキッチンの向こう側にいる妻を眺めた。
なだらかに弧を描く額のカーブ。整った鼻筋。日本人らしく繊細で淡泊ながらも、彼女の横顔は美しい。
友人の紹介で知り合った彼女と結婚して8年。これといった不満もない。知人のパーティーに同伴させれば、誰もが「奥さん美人ですね」と称賛する。
あえてトロフィーワイフを狙ったつもりはないのだが、妻が美しいと自分までもが羨望のまなざしで見られるのは悪くない。
「ね、そろそろ行かなくていいの?」
妻が壁の時計を指して言った。
「お、そうだな。悪い、スマホ取ってもらえるか?」
「もうそこに置いてあるわよ」
充電器から外した倉田のスマートフォンは、腕時計やハンカチと一緒に、カウンターの所定位置に鎮座していた。
妻はしっかり者だ。共稼ぎでありながら、家のことはすべて完璧にやってくれる。
「たまには手伝ってよ」と文句を言われたこともあるが、平日はだいたい遅いし、休日くらいは休みたいから、ついつい妻に甘えてしまう。
妻を愛している。それは結婚前から今も変わらない。
だが家事同様、多忙を言い訳に、ベッドの上の愛情表現は遠のいてしまった。
+ + +
「で、いつからやってないの?」
ショットバーで落ち合った親友・山本道朗(やまもとみちお)は直球で尋ねてきた。
「……1年は経ったかな。それ以前も、年1〜2回しかしてなかったけど」
「あーそれもう完全レスだわ。ハッキリ拒絶されたのか? それともうやむや系?」
「拒絶された覚えはないんだが、なんとなく面倒で。そういうお前はどうなんだよ?」
「俺はまだ週イチはしてるぜ」
山本は誇らしげな顔をした。
「知ってるか? 男は外に女ができると妻との回数も増え、女は外に男ができると夫とはやらなくなるらしいぞ」
山本が意地の悪い顔でこっちを見る。
「いや、それはありえないよ」
倉田はとっさに答えた。
「もうひとついいこと教えようか」
「何?」
「こないだ、ユカリにマンション買っちゃった」
ユカリというのは山本の愛人だ。
去年、赤坂のクラブでアルバイトしている彼女を口説き落とした山本は、妻とも愛人ともうまくやっている、男の憧れを具現化したような奴だ。
「マンションなんてあげたら、ユカリちゃん、贈与税で大変だろ」
「彼女の名義にはしてないよ。社員寮として経費に回した(※)。今期儲けすぎたから少し使っておかないと、と思ってね」
※ マンションを社員寮として買うことについて
編集N マンションに限らず、法人が住宅を購入または借り上げて従業員(役員含む)に賃貸することは、法人にとって節税になりますよね? このケースはどうなのでしょう? 愛人にマンションを与えて、節税もできるなんて一石二鳥じゃないですか。
税理士 ユカリは山本の会社の従業員ではないし、ユカリから家賃を徴収する前提でもありません。 そのため、山本は「自身の会社でマンションを購入し、社長の自分が住むものとして賃料を発生させる」段取りをしたのかもしれませんが……これは、もちろんアウトですね。ウソなわけですから。ユカリ或いは山本は会社に適正な家賃を支払わなければなりません。
編集N なるほど。ダメなんですね。愛人に与えることができないのに、法人が不動産を購入するメリットって、他に何かあるんですか?
税理士 法人・個人の話をすると、社長個人ではなく、社長の会社(法人)で不動産を購入した場合、様々な費用や税金を損金として計上することが可能です。
・購入時
印紙税、不動産登記費用(登録免許税や司法書士報酬)、不動産取得税など。
なお、不動産購入時の仲介手数料は不動産の取得価額に含まれるため購入時の経費にはなりません。この点は注意が必要です。
・購入後
建物等の減価償却費、固定資産税、借入利息、維持管理費、修繕費、損害保険料など。
ただし、不動産を売却することになった場合、その売却益には税金がかかってきます。
個人の場合は、自分が住んでいた物件であれば3,000万円の特別控除がありますが、法人にはそのような特例はありません。
一方、売却損の場合には、法人は決算利益から売却損を差し引くことができるため法人税の節税につながりますが、個人の売却損は特定の場合を除いて「ないもの」とみなされるため、所得税の節税には残念ながら使えません。
編集N 一長一短なんですね。
税理士 売却せず長い間所有するつもりならば購入でもいいですが、一時的な処遇が目的ならば、賃貸住宅を法人で借りて従業員に貸す「借り上げ社宅」のほうが向いているかもしれません。
編集N 一時的な処遇って「愛人」以外に何かあるんですか(笑)。
山本はIT企業を経営している。といっても数名のエンジニアを抱えただけの、小さな事務所だ。
現在は倉田の経営するコンテンツ運営会社にエンジニアを派遣するという繋がりだが、ふたりは大学時代からルームシェアをしていたほどの長いつき合いだ。
「お前もさ、愛人作れば? 奥さんがダメなら、外で発散すりゃいいじゃん」
「セックスだけなら、別に愛人にしなくても」
「金で割り切れるプロは安全だが、そのうち飽きる。行きずりの素人は、俺たちにはリスクがありすぎる」
いろんな面でベストなのが「愛人」なんだ、と山本は言った。
+ + +
零細企業のCEOとはいえ、山本も倉田もメディア露出等で多少の知名度はある。成功者的に取り上げられるのはやぶさかではないが、反面、顔が割れてくると不便なこともある。
「愛人として囲ってしまったほうが、妻バレのリスクが減る」
交流会で知り合った羽振りのいい社長連中にアドバイスされた山本は、お忍びで遊んでいた赤坂のクラブでホステスをしていたユカリを口説き落とし、愛人にした。
「な、もしその気なら、ユカリの友達紹介するぜ」
悪戯を思いついた時のニヤリとした顔は、学生時代から変わらない。
昔から山本は遊び人で、マジメだが好奇心旺盛な倉田は、彼によって数々の女遊びを覚えてきた。
(愛人、かぁ……)
タンブラーの中にある、溶けかかった丸い氷を指でくるりと回すと、カランと澄んだ音がした。
もう一度、女の温もりに指を沈めたい──わきあがる感覚に、倉田の胸が高鳴る。
「その友達って、どんな子?」
ひんやりした指先をおしぼりで拭きながら、倉田は山本に訊いた。
(つづく)
監修税理士:服部 誠
税理士法人レガート 代表社員・税理士