
株は、一度きりの人生を大きく変えることができる最強の「兵器」である。本連載では、世界最強の投資家であり、筆者の株式投資の師匠であるジョージ・ソロス氏より学んだ「投資のいろは」について見ていきたい。
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資本金1ドルでたった一人の投資運用会社を設立
まず初めに、筆者と株式投資とのかかわりについて説明していこう。
筆者はジョージ・ソロス氏が、真剣勝負を挑む姿を見て株式投資を学んだ。ウォール・ストリートで偶然に出会い、投資のいろはを最初に学んだ師匠が世界最強の投資家であったことは、筆者のその後のプロフェッショナルとしての人生を決定づけた。
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ソロス氏との関係が始まったのは、1985年12月、プラザ合意の直後で円高が急激に進んでいる時だった。当時、筆者は31歳で、ソロス氏は55歳だった。その年の4月、筆者は30歳で、当時勤めていた野村證券を辞めて、秘書を除けばたった一人の投資運用会社「アベ・キャピタル・リサーチ」をニューヨークに設立したところだった。資本金は1ドル。
退職の意志を会社に伝えた時には猛反対の嵐が起きた。「一人で何ができる? 会社の肩書があったから、やってこられたんだろう」「ウォール・ストリートを甘く見るな。失敗して野垂れ死にした奴がごろごろしているぞ」「おまえはまだ若い。独立するなとは言わないが、もっと経験を積んでからにしろ」今考えれば、いずれも筆者の身を真剣に案じてくれたありがたい忠告だった。しかし、当時の筆者の覚悟は固かった。それまで半年もの間、誰にも相談せずに悩み続けた末に出した結論だったからだ。勝算がないわけではなかった。
「自分の可能性に挑戦してみたい」という思いが・・・
実は、当初の予定では、経験豊富なビジネス・パートナーがついてくれるはずだったのだ。カラム氏である。彼は当時、スイス三大銀行の一つといわれたスイスユニオン銀行(UBS)で、富裕層向けにプライベート・アカウントの運用を担当するポートフォリオ・マネジャーをしていた。カラム氏と筆者が出会ったのは、さかのぼること2年前の1983年のことだ。
業界内でも凄腕のトレーダー(証券投資家)として有名だったカラム氏が、スイスのジュネーブからニューヨーク支店へと転勤してきたとの報告を聞いて、挨拶にうかがった。スイスの銀行が富裕層向けに行う投資は、安全で安定した資産運用を第一義に考えられているため、伝統的に、多通貨に分散した債券投資が中心になっている。リスクをヘッジしつつ一定の成果を上げるには、分散投資によるインカムゲインを狙うのが一番だからだ。
しかし、1970年代から、成長しつつある日本株に対する需要が世界的に増大し、債券型株式投資が可能な転換社債が、スイスの機関投資家の間で流行になっていた。カラム氏は、スイスにおける日本株投資ブームの口火を切った立役者の一人だ。70年代後半に、カラム氏は野村證券を通して日本の転換社債へ大きな投資を行い、大成功を収めていた。そのため、ニューヨーク支店に転勤してきてからも野村證券とのつながりを大事にしてくれた。
1982年にニューヨーク支店に来たばかりの筆者とカラム氏を引き合わせてくれたのは、当時の上司である斉藤 惇営業部長だ。斉藤氏は後に野村證券で副社長まで上り、現在は日本取引所グループのCEOを務めている。
カラム氏に最初に出会った日のことはよく覚えている。斉藤部長に命じられてアポを取り、ウォール・ストリートにあった野村證券のオフィスから、ミッド・タウンのパーク・アベニューにあったスイスユニオン銀行のオフィスまでタクシーに乗った。筆者より10歳ほど年上のカラム氏は、新人営業マンの筆者に対して、満面の笑みと大きな身振りで歓迎してくれた。この出会いがこの後の筆者の人生を大きく変えてしまうことなど、当時は想像もしていなかった。
スイス人のカラム氏の英語はフランス語なまりが強かったのだが、ネイティブのアメリカ人の英語より理解しやすかった。筆者は彼の誠実な人柄を感じ、彼も筆者のことを気に入ってくれたようだった。訪問から1週間後、カラム氏から筆者に対して最初の注文が入った。新人営業マンだった筆者には、カラム氏のような新規開拓顧客は珍しく、非常に誇らしげに斉藤部長に報告に行った時のことを今でもよく覚えている。
その後徐々に、筆者とカラム氏は、ビジネス上のつきあいをこえた友人関係になっていった。年長ですでに結婚もしていたカラム氏は、私生活でもよいアドバイザーになってくれた。当時の筆者は一人暮らしをしていたのだが、さびしいだろうとよく夕食に招いてくれた。奥さんのつくってくれるスイスの手料理は、アメリカ以外の外国を知らない筆者にとって、本当に新鮮な経験となった。
そのカラム氏が、最初に出会ってから2年後の1984年、「二人で会社をつくってビジネスをやろう」と筆者を誘ってくれたのだ。もちろん「会社を起業するなんて、そんなに簡単にいくものではない」という不安と恐怖心は私の中にあった。
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しかし、カラム氏の誘いを無下に断ることができず、起業に対する強い思いを自分の中に感じていた。筆者の中で「このままサラリーマンを続けるのはつまらない。独立して自分の可能性に挑戦してみたい」という気持ちが強くなっていった。半年間悩んだ末に、1985年の4月、4年間在籍した会社に辞表を出して、ウォール・ストリートに自分の小さな旗を打ち立てる孤独な起業を決意した。
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