複雑なデリバティブには〝人のチカラ〟が必要
田代岳氏は、米系のシティバンクと英系のスタンダード・チャータード銀行の2行で合計20年以上も為替ディーラーを務めたあと、現在は独立して自己資金でトレードするかたわら、自身の会社「株式会社ADVANCE」でセミナーなどを通じた投資情報発信を行い、「YEN蔵」(えんぞう)のニックネームで知られている。
私は田代氏と仕事で知り合い、インターネット放送「マーケット・スクランブル」で共演した。短時間の番組ながら、その中で言葉を交わしたり終了後に軽く話をしているうちに、彼の真面目な姿勢やプレーヤーとしての厚みを感じ、あらためてインタビューの場を設けて足を運んでもらった。
インタビューは2013年8月15日、林投資研究所オフィス近くにある料理店の個室で行った。
─最初に仕事をしたのがシティバンクだったのですか?
いえ、シティバンクに入る前に「コバヤシ」という短資会社にいました。為替のブローカーです。短資会社では現場にいて、その時のお客さんがシティバンクだったのが縁で、転職して為替ディーラーになったのです。
─短資会社というと、小さなテーブルを数人の男が囲んでいて、注文の札を投げるシーンを思い浮かべますよね。
よくニュースに出てくる映像ですね。でも、いつもあんなではありません。活況になって伝票を投げるシーンもありますが、通常はスタッフの女性に手渡します。まあ〝絵になる〟場面だけがテレビの映像として流れて定着した、誇張されたイメージでしょうね。
─短資会社の数は減ってしまったようですね。
以前は7社あったのが、現在は3社だけです。銀行間取引のブローカーとして利益も大きかったのですが、金利水準が下がって儲からなくなりましたし、外国為替の取引が電子化されて業務縮小を余儀なくされ、合併を繰り返すなどして3社に絞られたという状況です。
─プロ同士をつなげる立場として、重要な役割があると思っていましたが。
債券とか複雑なデリバティブならば、いわゆる〝人のチカラ〟が必要です。例えば、相手方の信用力などを考えながらの微妙なアレンジが要求されたりしますからね。でも為替の直物取引(※)って極めて単純なので、かなりの部分が電子取引で十分に対応できるのです。90年代の前半に電子取引が始まり、わずか3年くらいで業界構造がガラッと変わってしまいました。
それに、売買する為替ディーラー側では、電子取引によって事務処理が大幅に軽減されるのです。次々と売り買いしたあとのポジション管理でブローカー側と確認を取り合うなんて作業が、一切いらなくなるのですから。
建てたポジションのデータが自動的に手元のパソコンに取り込まれるので、自分のポジション全体が常に一目瞭然なんですよ。その分、トレードに集中できます。
※直物取引
正確には直物(じきもの)為替取引。「スポット取引」とも呼ばれる。2営業日以内に決済する取引で、株式の現物取引に相当するもの。
─株式市場と同じように大きく変わった面があるわけですね。
そうですね。証券取引所から場立ちがいなくなったのと全く同じでしょう。だから銀行が単純なブローカーのような位置づけになった、という変化もあります。ヘッジファンドが銀行のシステムを使って売買する、つまり銀行を経由するだけで、実際には顧客のヘッジファンドが直接、銀行間取引の場に玉を出すというようなことも現在はあります。
結果として、アルゴリズム取引と呼ばれるコンピュータを使った高速取引が増えるなど、マーケットの様子は一変しましたよね。
定期的な勉強会への出席が義務づけられていたシティ
─YEN蔵さんが為替ディーラーになったのは、そういった変化が起こる前ですよね。シティに移った理由は?
当時の短資会社は儲かっていたので収入の面では何の不満もありませんでしたが、所属していた会社が業界の末端に位置する弱小チームだったこともあり、もう少し華やかな場所でプレーヤーとして活躍したいという気持ちがありました。
そんな時、シティの東京支店から誘われたのです。外資系の銀行では大量の人事異動も珍しくなく、タイミングよく欠員が出たチャンスを逃さずに決断しました。
─シティでのディーラー教育について聞かせてください。
会社としての教育はそれなりにしっかりしていたと思いますが、座学が中心でした。金利のメカニズムとか、デリバティブの仕組みとかですね。定期的な勉強会があって、出席が義務づけられていたんです。
そのほかに、「ボース・ゲーム」というものがありました。
シティ独自で世界的に行っているものとしてけっこう有名なようですが、要するに取引のシミュレーションゲームです。シティの大手顧客、つまり輸出入企業や生損保などの担当者が泊まり込みで参加し、架空の通貨と中央銀行を設定した中で架空のニュースを流しながらシミュレーション取引を続けるというものです。
営業サイドの活動なのですが、僕たちディーラーはふだんから営業と一体になって業務を行うので、ボース・ゲームにも参加していました。
─具体的な売り買いについては、どんな教育でしたか?
実際の売り買いを教える教育プログラムというのは、ありませんでしたね。徒弟制度が自然に存在するような感じでした。
でも、師匠が指定されるわけでもなく、積極的に教えてくれる先輩もいませんでした。一人一人が職人で、それぞれのスタイルでトレードしているだけで、「覚えたければ勝手に盗め」という風土だったのです。
もちろん、聞けば教えてくれます。だから周囲を見回して「この人のやり方がいいな」と思う人がいたらトレードをのぞくとか、そんな感じでしたよ。
─以前の日本の銀行ではファンダメンタルズの分析が主で、「チャートを見るなんて邪道だ」といった発想だったようですが、シティではどうでしたか?
誰もがチャートをつけていましたよ。チャートの種類は人それぞれですし、オシレーター系を見ている人がいたり、移動平均を参考にしている人がいたり、という状態でしたが。
─覚えたての当時に行った実際のトレードは?
実は、詳細には記憶していないのです。でも、細かいデータなんてなかったので、日足を見ながら2日、3日くらいの期間でポジションを取るような売買でしたね。
それに、今よりも動きがありました。だから〝アヤ〟を取るというよりも、必然的にトレンドを意識したトレードを覚えたと思います。