前回は、印象派が生まれたいきさつを紹介しました。今回は、モネやルノワールをはじめとする、後世に名が知られる著名画家らが参加した、第1回「印象派展」開催までの経緯を見ていきます。

一人前の画家の条件は「公式展覧会」への入選だった

既成のルールに縛られずに描きたいものを描こうとした印象派のメンバーでしたが、そのために困ったことも起こりました。というのも、当時の美術界はサロンと呼ばれる芸術アカデミーの公式展覧会(官展)に入選しなければ、一人前の画家として認められないような窮屈な世界だったのです。

 

自分の描きたいものを思い思いに描く印象派のメンバーは、サロンに応募しても入選することができず、いつまで経っても画家としての地位が上がらなかったのです。

 

当然、サロンに落選する画家には不満がたまります。そこで、サロンに落選した画家たちは、しばしば民間のギャラリーで落選作品の展覧会を開催していました。

 

モネの場合は1865年、25歳の時にサロンで初入選し、翌1866年のサロンに当時はまだ恋人だったカミーユをアカデミックな画風寄りで描いた『緑衣の女性(カミーユの肖像)』を出品し、再び入選を果たしています。

 

神話や歴史ではなく現実に存在する人物を描いたこの絵は、小説家のゾラに写実性を高く評価され、後に800フラン(現代の貨幣価値に換算するとおよそ80万円)で売れてモネの家計を助けました。

 

すでにマネを強く支持していたゾラは、この絵をきっかけにモネとも交流を持つようになり、以降も筆の力で印象派を援護するようになります。

 

一方、後に戸外で印象派ならではの描き方を身につけたモネは、本心かどうかはわかりませんが、この作品を「気まぐれに描いた、ただのがらくた」と評しています。

落選し続ける仲間たちと「私設展覧会」を開催

しかし、サロンにデビューしたからといって、すぐに絵が売れるようになるわけではありません。翌1867年、カミーユとの間に長男ジャンが生まれたモネですが、カミーユとの結婚を認めない父親に仕送りを止められて生活に困窮するようになります。

 

1868年には、生活苦から自殺しようとセーヌ川に身投げしたという話まであります。モネが立ち直ってカミーユと正式に結婚したのは1870年のことで、子どもの誕生から3年が経っていました。

 

サロンにも毎年入選できるわけではなく、画家としての名声は依然として上がりませんでした。1869年、1870年とたて続けにサロンに落選したモネは、フランスの美術アカデミーにうんざりして、しばらくサロンへの出品を止めてしまいます。

 

そして、同じく落選を続ける仲間たちと一緒に1874年に行った私設の展覧会が「画家、彫刻家、版画家などの芸術家による共同出資会社第1回展」です。

 

この展覧会こそ、モネが『印象・日の出』を出品し、批評家から「印象派」と馬鹿にされた場でした。そこで、この展覧会は後世、「印象派展」として知られるようになります。

 

記念すべき第1回印象派展には30名の仲間が集まりました。その中にはモネのほか、ルノワール、ピサロ、シスレー、モリゾ、ドガ、セザンヌ、そしてモネの師匠だったブーダンなどが含まれていました。

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