前回は、モネやルノワールが参加した「第1回印象派展」開催までの経緯を解説しました。今回は、印象派が評価を得るまでを、画家・モネが辿った苦難の道とともに見ていきます。

世間に認められず失敗に終わった、1回目の印象派展

前回の続きです。

 

しかし、仲間の一人であったマネだけは、サロンこそが唯一絶対の展覧会だと主張して、「印象派展」には加わりませんでした。お互いの実力を認め合っていた仲の良い友人同士であっても、美術アカデミーに対する考え方は大きく違ったのです。

 

実は、印象派による最初の展覧会は失敗に終わりました。1カ月間の会期中に集まった客は3500人にすぎず、売り上げはメンバーが出資した金額にすら届きませんでした。サロンのほうは同じ期間に40万人を集めていましたから、印象派の果敢な試みは業界に笑われて終わったのです。

 

しかし、その後も印象派の仲間たちは1886年の第8回展まで展覧会を続けます。展覧会を続けるうちにだんだんと世間の評価も上がってきて、利益も出るようになりました。

 

モネは1879年の第4回展まで参加しましたが、その後は、仲間同士の意見の違いに疲れて、1880年から再びサロンに出品するようになりました。

絵を売るため奔走・・・やっと認められたのはアメリカの地

当時、モネは私生活でお金を稼ぐ必要があり、サロンに出品して名を上げることが急務でした。というのも、『印象・日の出』を買ってくれたパトロンのエルネスト・オシュデが破産して、オシュデ夫婦とその6人の子どもたちが、モネの家で暮らすことになったからです。

 

オシュデ一家がモネ一家と同居を始めた後の1879年、モネの妻のカミーユががんで亡くなります。32歳の若さでした。残されたモネの子どもたちの世話は、オシュデ夫人のアリスが、自分の子どもたちと併せて見るようになりました。夫のエルネスト・オシュデはパリに出稼ぎに行ってしまったため、モネの双肩に合計8人の子どもたちを養育する責任が重くのしかかりました。

 

モネは絵を売るために奔走します。その結果、1880年には、初めてモネの個展が開かれて、作品も数点売れました。新聞の評価も好意的で、モネは40歳にしてようやく画家として名を知られ始めたのです。余談ですが、エルネスト・オシュデは結局モネの家には戻らないままに1892年に亡くなり、モネとアリスはその後に正式に結婚しています。

 

1881年には、画商のポール・デュラン=リュエルが、モネとの間で定期的に絵を購入する契約を結びました。以降のモネは経済的に安定して、好きなだけ絵を描くことに打ち込みます。

 

とはいえ、印象派がパリの画壇で完全に認められたわけではありません。デュラン=リュエルはフランスで印象派の絵を売ることに苦労して、思いきってアメリカで売ることにします。これが当たって、印象派の画家は経済的余裕を得ることができました。

 

新大陸であるアメリカの人々は、ヨーロッパ文化に憧れていたのです。ただし、ヨーロッパ側にも歴史のないアメリカを見下す風潮があって、モネなどは「僕はもっとフランスで売れたい」とこぼしています。

本連載は、2017年4月28日刊行の書籍『「値段」で読み解く魅惑のフランス近代絵画 』から抜粋したものです。最新の内容には対応していない可能性もございますので、あらかじめご了承ください。

「値段」で読み解く 魅惑のフランス近代絵画

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髙橋 芳郎

幻冬舎メディアコンサルティング

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