前回は、ゴッホが画家になることを決意しながら、商業的に評価されず、苦しんでいた時代までを紹介しました。今回は、パリからアルルへ移住した経緯についてを見ていきます。

ゴーギャン、ベルナール、ロートレックらとの出会い

ゴッホの転機となったのは1886年のパリ行きです。パリで画商をしている弟テオを頼って何の前触れもなくパリに来たゴッホは、流行し始めていた印象派の絵画やジャポニスムに影響を受けて明るい色彩の絵を描き始めます。

 

折しもパリでは1886年の第8回をもって印象派展が終わりを告げ、新しい時代が始まろうとしていました。ゴッホはテオを通じて、ゴーギャン、ベルナール、ロートレックといった新時代の画家たちと知り合います。

 

ゴッホやゴーギャンは、後の時代にポスト印象派と呼ばれることになります。日本では「後期印象派」と訳されることもありますが、ポストとは「〜の後」という意味ですから、「印象派以後」と理解するのが正しいでしょう。

 

ポスト印象派の作家たちは、それぞれの手法で印象派を乗り越えようとしました。その画風は決して同一ではありませんでしたが、新しい時代をつくろうという若い熱気にあふれていたのです。

 

また、芸術の都パリで、ゴッホは弟テオ以外の理解者とも巡り合うことができました。

「陽光あふれる国・日本」への憧憬からアルルへ移住

絵具屋のタンギーは、アナーキストとして投獄されたこともある共産主義者で、無料(タダ)同然の値段で画材を販売したり、支払いを絵で受け付けたりして貧しい画家を支援していました。

 

絵も売っていたタンギーの店には必然的に、印象派の作品や日本の浮世絵などもあり、若い画家のたまり場となっていました。ゴッホもすぐに店の常連となり、作品を展示させてもらっています。

 

ゴッホが描いたタンギーの肖像画は、印象派風の明るい色彩で日本の浮世絵が何枚も背景に描かれており、当時のゴッホの関心がすべて表れています。タンギーは、ゴッホの葬列に並んだ数少ない友人の一人としても知られています。

 

ゴッホの日本美術に対する憧れは、同時代の画家の中でもとりわけ強いものでした。浮世絵の模写を何枚か残しているほか、日本の僧侶(坊主)風の自画像を描いたり、日本人を意識した若い女性の肖像画(『ラ・ムスメ』)を制作したりしています。

 

しかし、実際の日本を知らないために、ゴッホの中にはいくつか誤解もあったようです。その一つが、浮世絵に陰影が描かれていないことを理由に、日本を陽光あふれる国だと考えたことです。そして、日本に対する憧れがあまりにも強くなったために、1888年に南フランスのアルルへ移住します。

 

ゴッホがアルルからテオに宛てた手紙には、次のように描かれています。

 

「僕らは日本の絵を愛し、その影響を受けている。それはすべての印象派の画家に共通したことだ。それならどうしても日本へ、つまり日本とよく似た南フランスへ行かねばならない」

 

こうして、ゴッホは暖かく光あふれるアルルへと拠点を移します。そして、ゴッホの代表作のほとんどはこのアルルで描かれることになります。

 

ゴッホが画家になろうと決心したのは1880年、27歳の時です。亡くなったのが1890年、37歳の時ですから、画家としての活動はわずか10年間にすぎません。そのうえ、正規の美術教育を受けていないゴッホの初期作品は習作のようなもので、有名な作品の多くはアルル以降の2年半の間に描かれています。ゴッホがゴッホとなったのは、アルルへの移住があったからなのです。

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髙橋 芳郎

幻冬舎メディアコンサルティング

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