どんな分析を行っても勝ち続けることができない⁉
第2章と第3章(※書籍参照)で否定した「移動平均線」のほかにも、数々の分析法、多くの統計的アプローチがある。説明を聞くと、ものすごく当たるような気がするし、とにかく魅力的なものがゴロゴロとある。
だが、ピシピシと当たるものが存在する道理はない。仮に、勝ち続けられる法則があったとしても、実際のマーケットで売買して自ら価格変動に影響を与えるのだから、結局は、その法則が勝ち続けることはない。
例えば買い占めをすれば、一定の位置まで株価は上がる。需要に対して供給(売り)が少なくなるからだ。だが、うまく売り抜けるのは難しい。高い位置で買ってくれる人がたくさんいないと、自分の売り注文でどんどん値が下がるからだ。
原則として、どんな分析を行っても勝つことはできない。正確には、勝ち続けることができないのだ。ある時期は勝ちまくるだろうが、負け続ける期間もあり、最終的には“損益ゼロ”の結果に収束するのである。
そこで、複数の分析法を組み合わせて勝とうという発想になるが、同じ理屈で否定されるだけだ。市場経済が生まれて数百年、いまだにマーケットが破壊されずに継続しているということは、“必勝法”は成立し得ないということだ。
だから、どんな分析法も、夢のように当たることは期待できない。3年間、あるいは5年間当たり続け、50万円が3億円になる可能性はあっても、いつまで続くかを見通すことはできないし、たまたまスタートした時期が、長い負け期間の始まりかもしれないのだ。
無理やりなものを除けば、多くの分析法それぞれに優位性があるはずだが、少なくとも、ちまたの説明を真に受けて「打ち出の小槌だ」と考えてしまうことだけは避けなければならない。
研究や実売買を通じて多くを経験した人は、「株価変動には、つかみどころがないが、上がったり下がったりしているのはたしかだ」と言う。実践的に考えると、これを上回る分析はないのかもしれない。勝つためには、こんな堂々巡りの次元を超える“ひと工夫”が求められるという結論に達する。
分割売買を行う、休みを入れる、乗れたらねばる・・・計算だけに頼らず、人間の創造性と行動力でカベを突破しようということだ。これをまっすぐに貫く姿勢が、職人的なうねり取りの売買だ。
「値動きを通じて、参加者の動向を想像している」
独自の判断で株価の先を読み、見込みと実際のズレをポジション操作で修正して“結果をコントロール”しようと努めると、「変動感覚」と呼ばれる個人的な感性が生まれる。
説明が難しいが、例えば豆腐を箸で口に運ぶ動作について、箸の角度や力の入れ方を理論的に説明することは困難だ。箸の持ち方の基本を学び、何度も失敗して、うまくできる方法をつかむものだ。そして、できるようになったとしても、他人に教えるのは難しい。極めて個人的な感覚、自分だけの技術がそなわったにすぎない。
売買の技術も、これと同じだ。ポイントとして理屈を言うことはある。例えば、「ダラダラ下げのあと下げ幅が小さくなってきたから、下げ止まりが近いかも」といった観察も、そのひとつだ。
しかし、予測不能の株価に対してポジション操作を行うということは、感覚を駆使して自由意思で“泳ぐ”行為だから、総合的な解説は非常に難しい。
チャートの観察でも、「ワン、ツー、スリーと伸びたから目先の高値かな」といった、わかるようなわからない表現が飛び出すものだし、同じように感じた人でも同じポジション操作をするとは限らない。
この「変動感覚」の説明として、以前に思いついたことがあるので紹介する。「値動きを通じて、参加者の動向を想像している」という切り口だ。
相場技術論では、前述した通り、価格を絶対視し、その背景にいる投資家を考えることはない。これが原則だ。
しかし、値動きを生き物のように扱うことこそ、個人の変動感覚を生かした取り組み方である。その一点を追究すると、「自分と同じ生身の人間がいて、どのような感情を抱いて売り買いしているか」を考えている、といえるのではないか。
「下げ幅が小さくなってきた」という捉え方は、みんなが弱気でダラダラと投げが続いているが、そんな行動を取る人が減ってきた、と判断しているわけだ。
「ワン、ツー、スリーと伸びた」は、興奮した参加者が買いつき、それを見て二番手が買いつき、最も行動が遅い参加者までとうとう買いついた(だから目先の高値)という意味である。
妙な計算に頼るよりも、生身の人間として、生身の人間を想像する部分が、堂々巡りの次元を超える“ひと工夫”だと考えるのが、職人的なプロの発想である。