「所有より共有活用のほうがクール」という価値観
シェアリングエコノミーの根底にあるのは、産業が大量に生産したものを所有するという行為の拒絶・否定だ。そこにはいくつかの動機が考えられる。
まずモノが溢れている時代に育った世代は、欠乏の時代に育った世代のような所有の欲求がそもそも乏しい。せっかく稼いだお金を使うなら、ひとつのモノを買うより必要なときに必要な分だけ使うことで、複数のモノから価値を得たほうがいい。そのほうが消費スタイルとしてクールだという価値観もそこにはある。
所有より共有活用のほうが、なぜクールなのか? そこには人類が直面している大きな問題が隠れている。
地球規模で等比級数的に巨大化していく産業がこのまま資源を製品に変え続け、社会がそれを消費し続けたら、遠からず資源は枯渇し、環境は汚染され、経済システムそのものが破綻するだろう。そんなことは小中学生でも薄々感じている。シェアリングエコノミーへの移行は、こうした危機に対する社会・市場の自然な対応であると見ることもできるのだ。
シェアリングというモノの活用スタイル自体は、突然生まれてきたものではない。賃貸住宅などもシェアリングの古い形態と見ることができる。不動産賃貸が広がった背景には、高くて買いづらいという理由のほかに、近代社会で人の活動が活発化し、引っ越しをする機会が増え、所有するより借りたほうが便利で合理的だという事情がある。レンタカーも車を所有するより、必要なときに借りて活用するシェアリングの古い形態だ。
テクノロジーの進化が「賃貸」の概念をも変える
しかし、今広がりつつあるシェアリングには、賃貸住宅やレンタカーといった古くからある貸し出し事業と大きく異なる点がある。
まず、貸し手と借り手という一方通行の関係ではなく、ユーザーが持っているものを空いている時間だけ提供し、それをその時間帯に使いたいユーザーが利用する。提供されるものも多種多様だ。エアビーアンドビーの部屋・スペースやウーバーの車・移動手段以外に、道具などのモノ、人の労力など、多種多様なシェアリングが様々なウェブサイトによって運営されている。
ウェブサイトにアクセスすれば、利用可能なものの空き状況もすぐにわかるし、ユーザーが希望する条件を指定して、最適な選択ができる。ウーバーの場合は街のどこにいても、一番近くにいるドライバーにアクセスし、すぐに車で来てもらうことができる。ドライバーの信頼性、クオリティなどもレーティング(利用したユーザーの評価)がサイトに出ているので、安心して利用できる。このオープンで透明な仕組みも、シェアリングの大きな特徴だ。
従来の賃貸・レンタルにはないこうした便利さを可能にしたのはテクノロジーの進化だ。ユーザーはものを買って所有しなくても、シェアリングサービスのウェブサイトやスマホアプリを使って必要な時間だけ、必要な場所で手軽に使うことができるようになった。これがユーザーの消費行動を大きく変えた。これまで購入・所有にかけていたお金のある部分をシェアリングに切り替えることで、より有効にお金を使うようになったのだ。
シェアリングと購入・所有にかけるお金の比率は、人によって異なるが、この先シェアリングのサービスが多様化し、社会に広がっていけば、シェアリングの比率は高まっていくことになるだろう。
もちろんシェアリングの比率が高い人でも、所有したほうがより便利なもの、どうしても所有したいものというのはある。特に機能や性能、デザインなど、その人がこだわっているハイレベルなもの、特殊なものなどは、買って所有するほうを選ぶだろう。
シェアリングは単なる流行ではない
インターネットの普及により、どんな特殊な製品にもアクセスできるし、オンラインショッピングの品揃えがロングテール3化し、売れ筋商品からマニアックな商品まで購入しやすくなった。これも近年の消費行動を変える大きな要因になっている。
3. インターネットによる販売で、売れ筋商品から販売数が少ない商品まで幅広いアイテムを揃える手法のこと。販売数を示すグラフが恐竜のしっぽのように長く伸びたかたちになるためこの呼び名が生まれたと言われる。
たとえば平均的な消費者の購入・所有とレンタルの比率が9対1だったとしたら、これからは購入・所有が3、シェアリングが7になるといったことが起きるかもしれない。
しかも、シェアリングの消費スタイルはただ広がっているだけでなく、それが賢くお洒落な経済行動であるという認識も生まれてきている。そこには重要な価値観の転換がある。シェアリングは単なる流行ではなく、これからの経済社会に大きな影響を与える可能性があるのだ。
レイチェル・ボッツマン、ルー・ロジャースの『シェア』(NHK出版)には、アメリカに代表される「ハイパー消費社会」で今広がりつつあるシェア、コラボレーション、リサイクル・リユースの波が、どれほど広汎で、可能性に満ちているかが語られている。