罪悪感を抱えながら選んだ「近くで別々に暮らす」道
数週間後、香織さんは勤務先近くの賃貸物件を見つけました。実家から電車で30分ほどの距離です。
すぐに契約したわけではありません。物件情報を開くたびに、「母を見捨てることになるのではないか」という不安が湧き、画面を閉じました。
それでも、同居を続けた先に穏やかな親子関係があるとは思えませんでした。母に頼まれるたびにいら立ち、その後で自分を責める。そんな日々が続けば、いつか取り返しのつかない言葉をぶつけてしまいそうでした。
香織さんは文子さんに切り出しました。
「私、家を出て暮らそうと思う」
文子さんは、しばらく言葉を失いました。
「私を一人にするの?」
「近くに住むし、週末には来るよ。でもずっと一緒にいると、お母さんにも優しくできなくなりそうなの」
文子さんは泣きながら、「親より仕事を選ぶのね」と言いました。その夜、香織さんは自分の決断が本当に正しかったのか、何度も考え直しました。
「罪悪感で眠れませんでした。母が倒れている場面まで想像して、やっぱり家を出るのはやめようかと思いました」
しかし別居を取りやめれば、以前の生活へ戻るだけです。香織さんは一人で抱え込まず、地域包括支援センターへ相談しました。
地域包括支援センターは、高齢者や家族からの総合相談を受け、必要な制度や地域の支援につなぐ市町村の中核的な機関です。令和7年4月末時点で全国に5,487か所が設置されています。
職員が文子さんの生活状況を確認した結果、すぐに介護サービスが必要な状態ではありませんでした。ただし、地域の見守り活動や配食サービス、移動販売の情報を教えてもらい、緊急時の連絡方法も整理しました。
香織さんは、実家を訪ねる曜日を週2回に決め、通院は事前に予定を共有することにしました。日用品は宅配も利用し、文子さん自身ができることまで先回りして引き受けるのをやめました。
内閣府『令和7年版高齢社会白書』によると、65歳以上人口に占める一人暮らしの割合は、令和2年時点で男性15.0%、女性22.1%です。高齢者の一人暮らしは珍しいものではありませんが、家族や地域との連絡手段を整え、孤立を防ぐ備えは欠かせません。
引っ越し当日、文子さんはほとんど口をききませんでした。
香織さんも、新居で一人になると涙が出ました。それでも数日後、母から電話がありました。
「電球が切れたけど、近所の人に頼んで替えてもらったわ」
以前なら、香織さんがすぐに駆けつけていたでしょう。文子さんが自分で助けを求められたことに、香織さんは少し安心しました。
別居後、母への心配が消えたわけではありません。しかし、訪問する日は以前より落ち着いて話せるようになりました。
親と距離を置くことは、必ずしも見捨てることではありません。同居によって双方が疲弊するなら、支援の方法を整理し、無理なく関われる距離を選ぶことも必要です。香織さんが選んだのは、母との関係を終わらせる別居ではなく、これからも支え続けるための別居だったのです。
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