残高はあっても、戻らない時間…夫婦が気づいたこと
転機となったのは、典子さんの膝の痛みでした。大きな病気ではありませんでしたが、長時間歩く旅行は難しくなり、以前なら行けたはずの場所にも不安を感じるようになりました。誠司さんも体力の衰えを感じており、二人で海外旅行へ行く話をしても、「今から長時間の飛行機はきついね」と笑うしかありませんでした。
ある日、典子さんは古い旅行パンフレットを整理しながら、ぽつりと言いました。
「こんなに貯める必要、あったのかな……」
貯蓄4,000万円は、確かに夫婦を安心させてくれます。将来、医療費や介護費がかかる可能性もあります。厚生労働省『簡易生命表』によると、日本人の平均寿命は男性が約81歳、女性が約87歳とされており、高齢期の生活が長期化していることが分かります。お金を残しておく意味は、決して小さくありません。
典子さんが後悔したのは、貯めたことそのものではなく、楽しみを先送りにしてきたことでした。子どもが小さかった頃の旅行、夫婦で過ごせたはずの時間、親が元気なうちに一緒に行けた温泉。そうした機会は、あとからお金で買い戻すことができません。
その後、夫婦は家計の考え方を少し変えました。貯蓄を生活防衛資金、医療・介護費、住まいの修繕費、楽しむためのお金に分け、使ってよい金額をあらかじめ決めたのです。大きな旅行は難しくても、近場の宿に泊まる、美味しいものを食べに行く、会いたい人に会う。そうした小さな予定を、先送りしないようにしました。
「節約してきたことを全部後悔しているわけではありません。ただ、安心のためのお金と、人生を味わうためのお金を分けて考えるべきでした」
老後資金は、少なすぎれば不安になります。しかし、多く残すことだけが正解とも限りません。大切なのは、将来に備えながら、いま使える時間や体力も資産として考えることです。貯蓄の残高だけでなく、どんな時間を過ごしたいのかを夫婦で話し合うことが、後悔の少ない老後につながるのかもしれません。
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