1億円の通帳より深刻な、老後の「孤立」というリスク
田中さんが直面しているのは、お金の問題ではなく、「孤立」の問題です。
日本では、高齢者の単身化が加速度的に進んでいます。国立社会保障・人口問題研究所の世帯将来推計でも、65歳以上の単身世帯は今後さらに増加していくと繰り返し示されています。誰にも気づかれずに日常を過ごす人が増えていく社会が、すでに始まっているのです。
「現役時代は、嫌な上司や面倒な飲み会も多くて、早くひとりになりたいといつも思っていたんですよ」
田中さんはそう振り返ります。
「でも、定年で会社という箱から出てみたら、急に世界が静まり返ったんです。買い物に行っても、コンビニの店員さんに挨拶される以外、誰とも話さない日が当たり前になりました」
ファイナンシャルプランナーとして相談に乗っていると、資産が潤沢な人ほど、現役時代に仕事に没頭していた印象があります。それは資産形成にとっては大きな強みですが、引退後の人間関係の「資産」が薄くなりやすいという、もう一つの側面も持っています。
「お金は、健康や時間や人とのつながりを、あとから買い戻すことはできません」
これは、筆者が田中さんに伝えたことです。1億円の金融資産があっても、それで失った若さや、過ごせなかった時間は戻ってきません。むしろ、「お金があるから大丈夫」という安心感が、お金以外のリスクへの備えを遅らせてしまうことすらあります。
仮に風呂場で亡くなってしまっていれば、田中さんの財産は本人の懸念どおり、法定相続人もいない状態のまま、最終的に国庫へ帰属していた可能性が高いのです。民法上、相続人がいない場合の財産は、特別縁故者への分与などの手続きを経たのち、残りは国のものとなります。1億円が誰の人生も豊かにしないまま消えていく、そんな未来が、あと数センチの差で現実になるところでした。
アルバイトによって得られた新たな資産
アルバイトを始めるという決断は、お金のためではなく、「人とつながり続けるため」と考えると極めて合理的でしょう。
「週に2〜3日、無理のないシフトで、できれば若い方や年齢の違う方と関われるお仕事を選んでみてください」
3ヵ月後、田中さんは事務所に再来談しました。
「近所のホームセンターでアルバイトを始めました。週3日、午前中だけです。最初は道具の名前も覚えられなくて、20代の店長に何度も叱られましてね(笑)」
田中さんの笑顔をみられたのは、初回の相談以来、初めてのことでした。
「お客さまから『これ、どこにありますか』って聞かれるじゃないですか。あの一言が、こんなに嬉しいなんて知りませんでした。私を必要としてくれる人が、毎日いるんです。お給料は月7〜8万円です。自分の資産額からみれば、誤差みたいな額です。でも、このお金で同僚とランチに行ったり、お客さまに教わったお店で珈琲を飲んだりする時間が、何倍にも豊かに感じるんです」
老後の家計設計というと、どうしても「いくら貯めるか」「いくら取り崩すか」という金額の話に目が向きがちです。けれど、お金はそれを動かす人とのつながりがあって初めて価値を持つものです。
田中さんが選んだアルバイトは、自分の存在を社会のなかに置き直す行為そのものでした。お金を貯めるだけの人生から、お金とつながりを両輪で回す人生へ。あの風呂場での出来事が、皮肉にも田中さんの余生を救ったのかもしれません。
もし、自身や家族が「資産はあるのに、なにかが足りない」と感じたら、無理のない範囲で、社会と関わる小さな一歩を考えてみてください。お金だけでは決して買えないものが、その先で待っているはずです。
波多 勇気
波多FP事務所 代表
ファイナンシャルプランナー
【注目のセミナー情報】
【短期償却】5月27日(水)オンライン開催
《所得税対策×レバレッジ投資》
インフラ活用で節税利益を2倍にする方法
【資産運用】5月30日(土)オンライン開催
「金(ゴールド)価格」は今後どうなるのか?
インフレ・増税時代を乗り切る“資産防衛術”
【関連記事】
■税務調査官「出身はどちらですか?」の真意…税務調査で“やり手の調査官”が聞いてくる「3つの質問」【税理士が解説】
■月22万円もらえるはずが…65歳・元会社員夫婦「年金ルール」知らず、想定外の年金減額「何かの間違いでは?」
■「もはや無法地帯」2億円・港区の超高級タワマンで起きている異変…世帯年収2000万円の男性が〈豊洲タワマンからの転居〉を大後悔するワケ
■「NISAで1,300万円消えた…。」銀行員のアドバイスで、退職金運用を始めた“年金25万円の60代夫婦”…年金に上乗せでゆとりの老後のはずが、一転、破産危機【FPが解説】
■「銀行員の助言どおり、祖母から年100万円ずつ生前贈与を受けました」→税務調査官「これは贈与になりません」…否認されないための4つのポイント【税理士が解説】
