「早期退職」を選ばなかった一家の大黒柱
「ボーナスの明細を見るたびに思います。あのとき、一時の感情に流されて辞めなくて本当によかった」
大手メーカーに勤務する辞内さん(仮名・52歳)は、勤続30年のベテラン社員。当時の年収は約1,000万円でした。
辞内さんの会社では2年前、45歳以上を対象とした大規模な早期退職募集が行われました。条件は、通常の退職金に加え、年収の2年分にあたる約2,000万円の上乗せ。業績が黒字のうちに人員スリム化を図る、いわゆる「黒字リストラ」でした。
「正直、心が揺れなかったといえば嘘になります。閉塞感のある職場にうんざりしていましたし、『これで住宅ローンを返して、地方でカフェをやるんだ』と意気揚々と辞めていく同期の姿を見て、素直に羨ましいと思いました」
しかし、辞内さんは踏みとどまりました。大学生と高校生の子供がおり、教育費のピークがこれからやってくること。そして何より、自分には社外で通用する特別なスキルがないという現実を冷静に見つめていたからです。
「妻には『退職金で一時的に大金が入っても、すぐなくなるわよ。これから教育費のピークが来るのに、毎月確実に入るお給料を捨てるなんてありえない』と猛反対されました。その言葉で目が覚めたんです」
辞めた同期の「その後」と社内の現在地
残留を決めてから2年。社内の雰囲気は変わりました。人員が減った分、一人あたりの業務量は増えましたが、その分だけ「自分がやらなければ」という責任感も生まれました。
一方、早期退職した同期たちの噂も耳に入ってきます。
「起業した友人は1年で廃業し、今は契約社員として働いているそうです。再就職を目指した別の同期は、年収が半分以下になったと嘆いていました。連絡がつかなくなった人間もいます」
辞内さんの給料は、役職定年などの制度で以前よりは下がりました。それでも、毎月決まった日に数十万円が振り込まれ、年2回のボーナスがあり、福利厚生も使える。この「当たり前」がいかに安心できるか、辞内さんは噛み締めています。
「会社からは『ぶら下がり社員』と思われているかもしれません。でも、家族を守るために、泥臭くしがみつくことは立派な選択だと思っています」
会社の外の厳しさを知る辞内さんは、多少の不満はあっても今の状況を手放してはいけないと深く理解しているのです。
上場企業の約7割が「黒字」でもリストラする時代
辞内さんのような選択を迫られる場面は、今や珍しくありません。
東京商工リサーチの調査によると、2025年に「早期・希望退職募集」を行った上場企業は43社にのぼり、募集人数は1万7,875人に達しました。この数字は、前年と比べて約8割増加しており、リーマン・ショック以降で3番目の高水準です。
重要なのは、募集企業の約7割が直近の決算で「黒字」であるという事実です。企業が倒産寸前でリストラをするのではなく、体力があるうちに中高年社員を削減し、新陳代謝を図る「黒字リストラ」が完全に定着しました。三菱電機やパナソニックHDなどの大手企業が数千人規模の募集を行う背景には、こうした構造改革の意図があります。
早期退職に応募して割増金を得るのも一つの道ですが、それは同時に「大企業の正社員」を手放すことも意味します。再就職市場における50代の現実は厳しく、辞内さんのように「しがみつく」選択は、リスク回避の観点からは極めて合理的といえる側面があるのです。
[参考資料]
東京商工リサーチ「2025年 上場企業『早期・希望退職募集』状況」
