M&Aで問題となる「約束」の性質
中小企業のM&Aでは、クロージングをもってすべてが完結するわけではなく、M&A後も一定期間にわたり、売主社長または旧経営陣に対して各種の義務が課されることが一般的です。これらは、表明保証条項とは異なり、将来の行為や状態を対象とするものであり、コベナンツ条項として整理されます。
M&A後にトラブルとなるのは、「そのような約束があったにもかかわらず、実際には守られなかった」という場面です。買主としては、M&A契約で定めた義務が履行されなかった以上、損害賠償請求が可能であると考えがちですが、実務上は、義務の内容や範囲が抽象的であることも多く、必ずしも当然に責任が認められるわけではありません。
「善管注意義務」が問題となる場面
中小企業のM&Aでは、M&A契約締結からクロージングまでの間に一定の期間が設けられるのが通常です。この期間中、売主社長は対象会社を従前どおりの方法で運営し、通常の営業の範囲を超える特別な行為を行わない義務を負います。これは、M&A契約締結時点を基準とした企業価値や財務状況を維持するための善管注意義務として位置付けられます。
もっとも、実務では、この期間中に売主社長が裁量を拡大して解釈し、従業員への特別賞与の支給、給与の大幅な昇給、保険契約の自己への名義変更、経営者貸付金の任意返済などを行う例が見られます。売主社長としては通常の経営判断の一環と考えられることもありますが、M&A契約締結時点の前提条件を実質的に変更する行為と評価される場合があります。
善管注意義務は、単に重大な資産処分を禁止するにとどまらず、企業価値に影響を及ぼす可能性のある非通常的な事業運営を抑制する趣旨を含みます。そのため、「従前どおりの事業運営」に該当するかどうかが争点となり、過去の運用実態や金額規模、買主の承諾の有無などが検討されます。結果として、売主社長のクロージング前の行為が善管注意義務違反と判断され、責任が問題となることがあります。
「競業避止義務」が問題となる場面
M&A後、競業行為を行ってしまう売主社長も多く存在します。
この点、中小企業のM&Aでは、M&A後、売主社長が一定期間、対象会社と競業する事業を行わないことが定められるケースが多く見られます。これは、買主が取得した事業の企業価値を維持するためのコベナンツであり、売主社長による顧客や取引先の流出を防止する趣旨を有します。
しかし、実務では、競業避止義務違反そのものの立証が容易ではありません。売主社長が形式上は別法人を利用して事業を行っている場合や、表向きは関与していない形を取りながら実質的に支援している場合など、関与の実態を証明することが困難な場面が少なくありません。その結果、競業しているとの疑念があっても、証拠上明確に競業避止義務違反を基礎付けられないことがあります。
さらに、仮に競業行為の存在を立証できたとしても、それによってどの程度の顧客流出や売上減少が生じたのか、当該減少が市場環境や買主側の経営判断によるものではないことを立証する必要があります。因果関係および損害額の算定は容易ではなく、結果として責任追及の実効性が十分に確保されないという問題が残ります。
売主社長の「競業避止義務違反」が問題となった、実務上の事例
実務で多く見られるのは、クロージング後に売主社長が関与する別法人が類似事業を開始し、競業避止義務違反が疑われるという類型です。
ある中小企業のM&Aでは、売主社長は一定期間、対象会社と競業する事業を行わないことを約していました。しかし、クロージング後、売主社長が実質的に関与しているとみられる会社が同種商品を扱い始めました。買主は、顧客流出が生じたとして損害賠償請求を行いました。
もっとも、裁判では、対象会社と競業会社の売上が同時期にいずれも増加していた事実が指摘され、直ちに売主社長の行為による売上減少があったとはいえないとの反論がなされました。また、双方の主要顧客層や取扱商品の価格帯が異なっており、対象とするマーケットが必ずしも重なっていないのではないかという点も争点となりました。さらに、仮に競業行為があったとしても、それによってどの程度具体的な損害が発生したのかを数量的に立証することは容易ではありませんでした。
その結果、売主社長が競業行為をしていることは明らかなのに、因果関係および損害の立証が十分とはいえないとして、買主の請求が認められたのは限定的な範囲にとどまりましたが、売主社長は、事業開始初期であり、訴訟遂行負担が重いこともあり、類似事業の運営継続を諦めることとなりました。
すなわち、売主社長の競業避止義務違反が問題となった場合には、訴訟戦略や証拠の分析が重要であるといえます。
まとめ
競業避止義務は、M&A後の企業価値維持を目的とする重要なコベナンツですが、競業避止義務違反が疑われる場合であっても、売上動向や市場の差異、因果関係の有無が厳格に検討されます。結果として、実務上は十分な責任追及が困難となる場面も少なくありません。
M&A後のM&Aトラブルにおいては、M&A契約の文言のみならず、実際の市場状況や売上推移といった客観的資料に基づく立証が求められるため、競業避止義務の実効性をどのように確保するかは、M&A契約設計段階からの検討が必要となります。
弁護士法人M&A総合法律事務所 代表弁護士
土屋 勝裕
