時代の変化とともに、地域医療を取り巻く環境は厳しさを増しています。少子高齢化や医師不足、そして経営の難しさ……。地域に根ざした民間病院が、質を維持しながら存続し続けることは容易ではありません。しかし、栃木県日光市には、まもなく開院100年を迎える病院があります。結核の蔓延、戦後の混乱、そして経営危機。数々の荒波を乗り越え、なぜこの病院は地域に必要とされ続けてきたのでしょうか。本記事では、熊谷安夫氏の著書『病院経営 百年の約束 地域に必要とされ続けるために 病院が守るべき大切なこと』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋・再編集して、先々代から現代へと受け継がれてきた「医の道」への信念と、地域住民の生命を守り抜くための経営の軌跡について解説します。

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地域住民の生命を守る―先々代から引き継がれてきた約束

「民間病院を経営していくのは、いつの時代も大変だったのよ」

 

栃木県日光市の今市で、実家が経営する急性期病院・今市病院(以下急性期病院)に私が医師として入職した際、当時理事長を務めていた母が、祖父の苦労を伝えるようにこう話してくれました。

 

開院当時の今市は人口1万2,000人ほどで、地域に医師は少なく、重症患者は28㎞離れた宇都宮に搬送される状況でした。そのため、多くの結核患者が祖父を頼りにしていたといいます。

 

まだ医療保険がなかった時代です。いくら患者を診ても治療費がもらえないことも多く、経営は本当に厳しいものでした。医療保険ができたとき、祖父は「本当に助かった」と喜んでいたと母から聞いています。

 

私の父は、姉妹の長女だった母と結婚し、母方の姓を継いでいました。祖父が急逝した際、医師であった父は、地域の患者のために病院を存続させるべきとの強い思いから院長に就任しました。私は幼い頃から、地域医療に取り組むそんな父の姿を見て育ちました。

 

父は祖父から受け継いだ病院を医療法人化する際、「明倫、医道を究む」という理念を掲げました。この言葉は父が発したものではなく、江戸時代に医学教育の基本方針となっていたようです。「明倫」とは、儒教の言葉で社会や人間関係における正しい道を明らかにし、それを守るということです。「医道を究む」とは、医学の知識や医術の技を深く学び究めること、さらに医師としての倫理や人間性を含めて、医療の道の真理を生涯をかけて探究し修練することを指します。のちに偉大な彫刻家、北村西望先生に「明倫究医道」と書いていただき、額に入れて院長室に掲げていました。今は私の理事長室に掛けてあります。

 

1987年に父が亡くなったあとは、母が理事長兼院長に就任し、その後、次男である弟が院長職を継承しました。弟が急性期病院の院長職を引き継ぐとき、地域住民との約束として「生命の尊厳を最期の一瞬まで守る」という理念を掲げました。私は2011年に母から法人の理事長を引き継ぎ、さらに2020年からは、2003年に開設した慢性期病院・日光野口病院(以下慢性期病院)の院長も兼務しています。

 

祖父から両親、そして私たち兄弟へと病院の経営は引き継がれてきました。今は急性期と慢性期という両輪で、まもなく100年という節目を迎えます。

時代の変化を受け入れながら地域が求める医療を提供

病院が開業した1927年当時は、国民病ともいえるほど結核が流行していました。祖父は、都会の病院にしか導入されていなかった高価なX線装置を導入し、肺結核の診断精度を飛躍的に高めて多くの命を救うことに貢献しました。当時の経営状況から考えると大きな投資でしたが、地域の結核患者を救うために必要な決断でした。また、祖父はこの地域で初めて虫垂炎(いわゆる盲腸)の手術を成功させた医師でもありました。一方で、自身の専門外については外部から医師を招き、外科、婦人科、眼科といった多様な診療科を整備しました。こうして地方でも最先端の医療が受けられる体制を築いていったのです。

 

戦中戦後の混乱期を乗り越えた祖父は、戦後に入り、医学の急速な進歩や疾病構造の著しい変化に対応するため、病院の方針転換を図っていきました。また同時に、旧今市町議会の推薦を受けて1946年に町長に就任し、院長と町長という2つの職務を兼任することとなりました。しかし、この2つの重責を果たすのは並大抵のことではなく、激務と心労が重なったせいか、1948年に急性心筋梗塞のため65歳の若さで亡くなりました。

 

祖父の急逝後、後継者として予定されていた娘婿の父が学位取得を終えるまでの間、戦地から復員していた祖父の弟(私の大叔父)が一時的に院長を務めました。1952年、35歳になった父が正式に院長に就任すると、当時の外科診療水準に追いつくべく、診療機器の更新や組織の再整備を行っていきました。

危機を救った「医師のネットワーク」と法人化

しかし数年後、父は喀血を伴う病により、思うように診療が行えなくなってしまいます。医師が次々に退職し、最終的には父の戦友であった内科医が一人で奮闘する状態となってしまいました。そこで父は、東北の病院で勤務していた弟(私の叔父)を呼び寄せ、1956年に外科担当として入職してもらいました。叔父はその後、外科医として数多くの手術を手掛け、高度な技術と実績により地域の厚い信頼を得るようになりました。また、叔父の妻である叔母も眼科医として病院で診療にあたりました。

 

1960年代に入り国民皆保険制度が導入されると、日本中の病院や診療所に多くの患者が押し寄せるようになりました。叔父の入職後、さらにもう一人の外科医が加わり、内科には内分泌を専門とする優秀な内科医に常勤となってもらうことができ、眼科や整形外科も体制を強化していきました。高まる医療需要に支えられて、病院もようやく経営が安定。1964年には個人病院から社団医療法人へと改組し、病床数も90床に拡大しました。

 

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病院経営 百年の約束 地域に必要とされ続けるために病院が守るべき大切なこと

病院経営 百年の約束 地域に必要とされ続けるために病院が守るべき大切なこと

熊谷 安夫

幻冬舎メディアコンサルティング

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