「ずっと夢だった」妻のひと言から始まった移住
「本当に、憧れだったのよ。朝起きて、海が見える家で暮らすって」
そう語るのは、千葉県の海沿いの町に移住した佐藤美紀さん(仮名・68歳)。都内で会社員として働いていた夫・誠一さん(71歳)とともに、退職後の生活拠点としてこの地を選びました。
きっかけは、美紀さんのひと言だったといいます。
「定年後は、海のそばで暮らしたい。そんな話をしていたら、夫が『じゃあ、探してみようか』って。本当に優しい人なんです」
当初は夢に満ちた日々でした。早朝の散歩、地元の直売所で新鮮な魚を買い、家庭菜園で育てた野菜を使って夕食を楽しむ。車で少し行けば温泉にも入れるという環境に、「理想以上」と喜んでいたといいます。
しかし、移住から2年が過ぎた頃、誠一さんの表情は曇るようになりました。
「最初はね、楽しんでくれていると思っていたんです。でも、ある日突然、『ここ、俺には向いてないかもしれない』って言われて……絶句しました」
誠一さんは地元に知り合いが一人もおらず、趣味仲間もできませんでした。もともと社交的というよりは、仕事を通じて人間関係を築くタイプだった彼にとって、「毎日が誰とも会話しない日々」になっていたのです。
「お前は楽しそうでいいな」――その言葉には、どこか拗ねたような、寂しさがにじんでいたと美紀さんは振り返ります。
誠一さんの“ひと言”は、暮らしの中で感じていた小さなストレスの積み重ねでもありました。
「病院まで車で30分。冬は道も凍るし、正直不安だった」「バスは1日に数本だけ。免許を返納したら買い物にも行けないかも」
こうした不便さは、住む前からある程度想定していたものの、年齢を重ねるにつれて現実味を増してきたといいます。
国土交通省『地域公共交通の現状(令和7年)』では、地方部における路線バスや鉄道の廃止・減便が進み、多くの事業者が厳しい経営環境に置かれている実態が示されています。こうした背景を踏まえると、自家用車に依存しがちな地方生活では、免許返納や運転困難になった後の移動手段の確保が大きな課題となるのが現実です。
