小さな部屋とベンツの鍵
とある住宅街にある築25年の木造アパート。部屋は6畳に小さなキッチンとユニットバスが付くだけの、ごく普通の単身者向け住宅です。壁紙はところどころ日焼けし、床のきしみも年季を感じさせます。そんな一室で暮らしているのが、71歳の菅原弘さん(仮名)です。
「ここ? 十分ですよ。静かだし、駅にも近いし、家は“寝て整える場所”くらいの感覚でちょうどいいんです」
言葉通り、部屋の中央には小さなローテーブル、家電も最低限。衣類も数着を着回すだけという質素な生活ぶりです。ところが、そんな菅原さんが毎朝丹念に磨き上げているのは、アパート前の月極駐車場に停められた黒いベンツ。しかも、その車はベンツの中でもひときわ存在感のある上位モデルで、新車価格は数千万円台にもなるといわれています。
菅原さんは元・自動車部品メーカーの営業マン。定年まで勤め上げた後、退職金と企業年金で生活しながら、長年の夢だった「自分の理想の車を所有する」ことに踏み切りました。
「家って、住めればいい。でも車は、運転中ずっと自分と一体じゃないですか。内装の手触り、シートの角度、静音性、すべてがストレスなく整っている。自分の人生では、何よりも車を重視したかったんです」
外食も旅行もせず、服も数年に一度買い替える程度という菅原さん。日々の食費は1日千円未満に抑え、趣味もほとんどありませんが、「あの車だけは別」と笑います。
「洗車もオイル交換も全部自分でやるんですよ。それが一番の楽しみでね」
“老後資金2,000万円問題”が話題になる一方で、高齢者の貯蓄額には大きな個人差があるのが現実です。金融広報中央委員会『家計の金融行動に関する世論調査(2024年)』によると、70代単身世帯の平均貯蓄額は1,529万円。ただし中央値は500万円にとどまり、生活スタイルに応じた支出計画が重要となります。
高齢者の生活がコンパクト化していく背景には、社会的な事情もあります。持ち家を手放して賃貸へ住み替えるケースもあります。
家賃を抑え、住宅に過剰なコストをかけずに「本当に大切なこと」に投資する――菅原さんのような“価値の分岐点”を持つ高齢者は今後も増えていくかもしれません。
