「ここで余生を過ごす」父母の決断
「こっちの家、もう売ろうと思ってるんだ」
そう電話口で話したのは、70歳の父・俊一さん(仮名)でした。都内の郊外に構えた築40年の戸建てを売り、老後の夢だった「海の近くの町」へ引っ越すというのです。
持ち家は立地もよく、売却益は約1,800万円。年金は夫婦合わせて月22万円ほどあり、「家賃もいらないし、十分暮らしていける」と意気揚々と話していました。
息子の健太さん(仮名/33歳)は反対しませんでした。体が元気なうちにやりたいことをやってほしい――そんな思いもあり、移住を応援するつもりでいました。
移住から約1年後、健太さんは久しぶりに両親の新居を訪れました。駅から車で20分、海がすぐそばの閑静な集落にある一軒家。想像していた「晴れやかで穏やかな暮らし」とは裏腹に、玄関先にはゴミ袋が積み重なり、窓は締め切られたまま。なんとも言えない空気が漂っていました。
ドアを開けた母は、以前より明らかにやつれて見えました。父は腰を痛めて寝室にこもりきり。買い物は母が自転車で片道30分かけて行っているそうで、「病院もバスが1日3本しかないの。車の運転もそろそろ限界だし…」とぽつり。
実際、厚生労働省『高齢者の住宅と生活環境に関する調査(令和5年度)』によると、65歳以上の高齢者が住まいや地域環境で重視する点として、「医療や介護サービスなどが受けやすいこと」(61.4%)や、「移動や買い物の利便性」(54.1%)が上位に挙げられています。健康や交通の不便さは、移住先を選ぶうえで避けて通れない課題だといえるでしょう。
移住当初は交流を期待していた地域住民とも距離があり、「誰も頼れないの」と母が笑った顔が、寂しく映りました。
夫妻のように、地方でのんびり暮らすことを夢見て移住する高齢者は少なくありません。しかし、想定外の事態はすぐにやってきます。
高齢期の地方移住で特に問題となるのが、「医療アクセス」と「移動手段」です。日常の移動の不便さだけでなく、病院までの距離が遠く、急病時の対応に不安を抱えるケースも。
さらに、家の管理や買い物、雪かきや草むしりなど「田舎暮らしに必要な生活力」は、年齢とともに確実に衰えていきます。俊一さんも「DIYが好きだから」と張り切っていたのに、足腰の痛みで何もできなくなってしまったそうです。
