タイ国内の日系企業からの発注もほとんどゼロに
通貨危機が起こってしまってから、私たちは遅ればせながら対応を考え始めました。
一つは、営業に「動くな」と命じたこと。営業してもしばらくは仕事がとれないのは目に見えていましたし、バンコク往復で約300㎞。ガソリン代や経費もばかにならないので、動かずに様子を見ろと指示を出しました。
次に、仕事と収益の確保です。この危機で、操業前にあてにしていたタイ国内の日系企業からの発注はほとんど期待できなくなりました。
そこで日本の本社に連絡して、国内でやるべき仕事をタイにまわしてもらったり、タイでもできる仕事を新たにつくって発注してもらったりして、なんとか資金繰りをよくする方向で便宜を図ってもらい急場を凌ぎました。タイ工場の操業直後からこんなことになるとは思ってもいませんでしたが、背に腹は代えられません。
この時驚いたのは、以前から本社で付き合いのある日本の銀行のタイ支店に融資を申し込んだところ、断られてしまったことです。仕方なく先代に相談すると、
「それが貸し渋りというもんだ」
と愉快そうに笑っていました。先代にとっては、入社6〜7年目でまだまだひよっ子だった私を鍛えるためにこのミッションを授けたのでしょうから、この苦境はむしろ歓迎していたのかもしれません。
こうして私はタイに赴任すること約4年、通貨危機という想定外の苦境に見舞われましたが、なんとかそれを脱することができ、工場も本格稼働したのを見届けて、ミッションを達成することができました。
経営者としてのスタートとなったタイでの経験
この時学んだ危機管理の大切さ、人心掌握のポイント、異文化への対応ノウハウ、為替の怖さ等は、そのままいまの経営者としての私の大きな経験値となっています。
いまでは私の経営者としてのスタートはタイにあったと思えるし、そのスタートが「苦境」だったことが、私の経営哲学の一つの要諦を形成していると思えるようになりました。
そもそもオキツモという企業を継ごうと思ったのは、タイでの体験があったからでした。通貨危機をなんとか乗り越え、操業も順調に回転しだしたのを見て、私は自分の中に経営という素養があることを感じられたのです。
――いつかはこの会社のトップとして、社員を牽引していくんだ。
そう思えるようになりました。その意味でも、大きなタイでの経験でした。
[図表1]タイ現地法人 オキツモ・インターナショナル(アジア)の業績推移
[図表2]オキツモ・インターナショナル(アジア)設立当時
[図表3]オキツモグループ 利益内外比率(左)と売上高内外比率(右)