前回は、海外赴任に必要な「異文化に溶け込む努力」とはどのようなものかを紹介しました。今回は、突然やってきた「通貨危機」に、タイ赴任中だった筆者はどのような状況に陥ったのかを見ていきます。

突然のバーツ大暴落で、目の前が真っ暗に・・・

「社長大変です。通貨が大暴落しています」

 

ある日のこと、私は社員の声に愕然としました。

 

それまで1バーツ5円台だったタイの貨幣が、ある日ある時を境に1バーツ2円台に崩落してしまったのです。

 

えっ!

 

私は叫んだまま身体が硬直してしまいました。

 

目の前では、建設が済んだ新しい工場や事務所に、製造機械や事務家具、事務用品等が続々と運び込まれる光景が展開されています。操業開始を間近に控え、社員たちも活気に溢れた様子で働いています。

 

ところがタイバーツが大暴落したということは、稼いでも働いても儲け自体が急落するということ。

 

タイ工場は日本から材料を買い、工場で塗料を生産しタイ国内にある日系企業の現地工場に販売するというビジネスモデルでしたから、タイバーツの価値が半減して売り上げは半減するのに借金は2倍になるという四面楚歌状態でした。

 

それまで日々の仕事に忙殺されて、為替のリスクヘッジを何もしていなかった私は、貨幣価値の暴落をまともに受けて、目の前が真っ暗になる思いでした。

ヘッジファンドがしかけた「通貨の空売り」

この時のアジア通貨危機は、アメリカ合衆国のヘッジファンドを主とした機関投資家による通貨の「空売り」によって引き起こされ、タイ、インドネシア、フィリピン、韓国等の経済を丸飲みして、各国通貨を大暴落させました。

 

それまで1990年代のタイ経済は、年間平均成長率9%を記録するほど好調でした。1996年に入ると成長に陰りが見え、貿易収支が赤字に転落。1997年5月になると、ヘッジファンドが通貨の空売りをしかけます。価格が安くなったところで買い戻せば、莫大な利益が出ると踏んだからです。

 

対してタイ銀行は外貨準備を切り崩して買い支えましたが、度重なるファンドの空売り攻勢に耐えられず、ついに同年7月には変動相場制へとシフトします。

 

それまで1ドル=24.5バーツだったレートが急落し、1998年1月には56バーツを記録。国際通貨基金等の必死の援助もままならず、タイ証券取引所の時価総額指数は、1998年には史上最高値のわずか11.8%でしかないSET指数207.31を記録。

 

タイ中央銀行が自国通貨を必死に買い支えるべく奮闘する様を、経済の専門家が「血まみれのバーツ」と呼ぶほどの大恐慌となりました。

 

危機がやってくる直前までは、タイ経済は活況を呈していました。バンコク市内は一日中車の大渋滞。新しいビルもどんどん建設され、都心の光景はめまぐるしく日々変わっていました。

 

[図表]円とタイバーツの為替推移

 

ところが通貨危機以降は、バンコク市内を車で走ってもすいすいと走れてしまい、かつてだったらたいていはアポイントに遅刻していたものが、時間に正確に目的地に辿り着けるようになってしまいました。

 

もちろんそれは歓迎すべきことなのですが、あの猥雑なバンコクを知っている者にとっては一抹の寂しさがある。あの喧騒はどこにいった。あの活気はどこへ消えたと、外国人である私たちも嘆いていました。

本連載は、2016年10月14日刊行の書籍『世界トップシェアを勝ち取った田舎の小さな工場の奇跡』から抜粋したものです。その後の税制改正等、最新の内容には対応していない可能性もございますので、あらかじめご了承ください。

世界トップシェアを勝ち取った 田舎の小さな工場の奇跡

世界トップシェアを勝ち取った 田舎の小さな工場の奇跡

山中 重治

幻冬舎メディアコンサルティング

日本の製造業は成熟期を迎え、国内市場は縮小しています。大手メーカーは海外に市場を求め、海外での現地生産を加速していますが、海外に拠点を持たない国内の中小企業は、生き残りをかけた熾烈な競争を余儀なくされています。…

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