後継者の息子は「継ぐ意思がない」ことを明言
「買収したい」とスタートした相談が、最終的には「譲渡したい」という要望に変更されることが増えています。買収を検討するなかで、M&Aについて詳しくなり、自らの将来を見つめるうちに「逆に譲渡したほうがいいかもしれない」と思うに至った事例です。
【図表】事例概要
<事例詳細>
1.譲渡側の視点
譲渡側のI会は高齢化による在宅診療のニーズの高まりをいち早く察知し、関東圏で訪問診療をはじめた業界のパイオニア的存在です。高い収益性を保ち、財務内容も優良なことから、さらなる業容拡大のため、訪問診療と連携できる入院施設を持った病院や介護施設の買収を検討していました。しかしながら、慢性的なベッド不足に悩む関東圏において病院を買収しようとすると、多額の資金が必要となり、金融機関からの長期借入金が必要不可欠となります。
理事長は60歳代後半ではありましたが、医師の息子さんがおり、当初は後継者として考えていました。M&Aによる買収を検討するなかで、息子さんに対して「多額の長期借入をしてでも事業拡張をしていく気があるのか、そもそも私の跡を継ぐ気があるのか?」と問い掛けたところ、「自分は大学病院で研究を続けたい。医療法人の経営や借金のリスクは負いたくない」と、明確に継ぐ意思がないことを表明されました。
理事長自身の体力も衰えるなか、訪問診療業界への他業態からの参入が増加し、競争が激しくなってきたこともあり、I会の将来性を考えた結果、当初とはまったく逆の譲渡という決断に至ったのです。
2.譲受側の視点
譲受側のJ会グループは介護事業をメインとし、グループ内で医療法人、社会福祉法人、株式会社といった様々な法人形態で医療介護事業を行っています。過去には近隣の介護事業者を買収しただけでなく、大手介護事業者に自社の介護事業の一部を売却した経験もあり、M&Aを経営戦略の一環として積極的に活用してきました。元々、介護施設の運営がメインでしたが、自社の介護施設の入居者への質の高いサービスの提供を目的として、施設向けの訪問看護・訪問診療を開始した経緯があります。
これまでは神奈川・埼玉・千葉といった都心から少し離れたベッドタウンが多く存在するエリアを中心に拡大してきましたが、激戦区でありながらも最後の空白地帯となっている東京での拠点拡大が、今後の課題となっていました。
自社の将来を考えて、私利私欲を捨てた決断
3.M&Aコンサルタントの視点
訪問診療自体は拡大が期待される一方で、施設向けの診療報酬引き下げや相次ぐ新規参入などにより、今後の競争環境は厳しくなることが予想されています。また、訪問診療は夜間の緊急呼び出しなど医師への負担が大きいため、生き残るには複数の拠点間での医師やスタッフの連携が必須とされています。少数の医師しか確保できない状況で、ニーズがあるからと安易に訪問診療に参入したものの、医師の体力的・精神的疲労が蓄積してしまい、最終的に撤退を余儀なくされるというケースも見受けられます。
そうしたなか、I会は既に都内だけで6拠点、常勤・非常勤合わせて21名の医師を抱えており、いち早く規模の拡大に成功し、安定した収益を確保してきたという点では間違いなく業界の勝ち組です。ただし、当時間近に迫っていた訪問診療に対する大幅な診療報酬改定(実際に平成26年から大幅に減額されました)もあり、訪問診療だけに特化してきた単一のビジネスモデルの危うさを感じ、将来を考え買収という選択肢を希望されていました。
当社では、どういった企業を買収すべきか、という単なる相手探しの相談だけではなく、「そもそもなぜ買収をする必要があるのか」「買収に伴うリスクは何か」「将来の自社の経営をどうしていきたいのか」といった、中長期的な視点に立ったコンサルティングを実施しました(当社では「戦略会議」と呼んでいます)。M&Aは目的ではなく、あくまで目的を達成するための手段です。大事なのはM&Aの先に何があるのか、何をしたいのかということです。
譲渡側のI会の代表者は、さすが時代の先を読むことに長けた優秀な経営者です。息子さんとの話し合いを経て、わずか3カ月で勝ち組として盤石と思われた自社の譲渡を決断したのです。どうすることが自社の将来にとって最善なのかということを、私利私欲を捨てて決断されました。
また、譲受側であるJ会グループとしては、すでに神奈川・千葉・埼玉を中心に医療・介護の施設を約30拠点有しており、空白地帯である東京への進出が悲願でした。しかしながら、最大の激戦区でもある東京に一から攻め込むとなると、大変な時間とコストがかかってしまいます。そこでM&Aを積極活用したというわけです。
4.まとめ
今回のシナジーをまとめると、以下のようになります。
①譲受側として、最大のマーケットである首都圏を幅広く無駄なくカバーすることができるようになった。
②多数の医師の確保により、さらに一層充実した医師へのサポート体制が確立された。これにより、医師の新規採用もやり易くなった。
③医療と介護、在宅と入院といった患者の囲い込みが可能になり、将来の診療報酬改定にも耐えうる組織力を手に入れることができた。
譲渡側にとっても譲受側にとっても、正にWIN-WINの関係となることで両者の発展が期待されるとともに、地域医療・介護サービスの充実につながった社会的にも意義深い事例でした。