出勤したくなくて…部屋の押入れに隠れる
そこではじめて谷崎潤一郎の小説を読むと「日本にもこういう作家がいたのか」と感激したという。その後、ドストエフスキーを読み、さらに文学の世界に浸ることになるが、食うためには、いつまでも働くことから逃げるわけにはいかない。三重県の鳥羽造船所で働くようになる。
ここでは職工に読ませる雑誌の編集に夢中になった。いわゆる業界誌の編集者だ。
だが、やっぱり段々と出勤することがイヤになってきた。そこで乱歩が考えた作戦が、「寮部屋の押入れの上段にふとんを敷いて、昼間もそこに寝ておく」というもの。
襖を閉めきっているので、様子を見にきた同僚は、出勤したものと思い込む、というわけだ。ドラえもんじゃないんだから……。
ちなみに、このときに押入れで天井を見つめていた経験が、『屋根裏の散歩者』という小説の着想につながったという。
ストレスフルな毎日のなか、乱歩の逃亡癖が突然、発動する夜もある。夜中にひとりで寮を抜け出し、街の禅寺で朝まで座り続けた。職場が大騒ぎになったことはいうまでもない。乱歩は、この職場も1年で退社している。
「石の上にも3年」なんていうことわざとは無縁の乱歩。しっくりこない職場から逃げて逃げて、逃げまくって転職を繰り返した。同じ職場にいた期間は長くて半年か1年というから、こうなってくると、もはや逃亡生活に近い。
短期間だが、支那そばの屋台を引いていた時期もある。屋台のラッパを吹く男が、日本における推理小説のパイオニアとして名を馳せるとは、誰も思わなかったことだろう。
もはや、定食屋にツケもきかなくなり、3日も炒り豆だけで暮らすなど貧苦にあえいだ乱歩。この頃、結婚もしており、さすがの乱歩も危機感を募らせる。
一念発起して、かつて貿易商社を紹介してくれた恩人を再び頼って、東京市社会局の仕事を紹介してもらう。
かつて紹介先で逃亡しただけに、気まずかったに違いない。それでも、背に腹は代えられない。今度こそ乱歩は人が変わったかのように働いた……とはならなかった。当時のことを乱歩はこう語る。
「悪事をはたらいたわけではない。ただ毎朝起きて、きちんきちんと勤めに出る根気がなかったのである」
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