皮肉にも人々の投資意欲に火をつけたフロリダバブルの崩壊
1925年1月、米国のビジネス誌「フォーブス」は読者(投資家)に向けた重要な記事
を掲載した。
「フロリダの不動産価格は手に負えず、買い手を見つける希望だけに基づいている」
実質的な“警告”であった。
ちょうどその頃、ポンジ・スキーム(詐欺師ポンジ・スキームの名に由来する投資詐欺)
を恐れたIRS(米国内国歳入庁)が、フロリダにおける不動産投資の調査を開始した。
臨界点に達したフロリダの不動産市場への新規参入者は減少傾向となり、不動産価格の伸
びも鈍化していた。そして、バブルが崩壊するための全ての条件が満たされていった。
1926年に入ると、とうとう買い手の流入が衰え始めた。ブームに翳りが見え始めた矢
先、不運な出来事が起きた。
同年1月10日、マイアミ港の入り口に浮かぶホテルに改造されることになっていたデンマークの古い軍艦「プリンツ・ヴァルデマール号」が転覆したのだ。
国内の人口拡張に呼応し、すでに鉄道は輸送料金の引き上げを開始していた。そこへプリンツ・ヴァルデマール号の転覆事故が発生、マイアミへの航路が遮断された。
港の閉鎖に伴い、熱帯の楽園という都市イメージが崩れ出した。報道される難破船の写真が、多くの人々に酷い心理的影響をおよぼすようになった。
あれほど熱中していたフロリダに誰もが嫌悪感さえ抱くようになってしまったのである。
そして1926年9月、10月に二度のハリケーンがマイアミのリゾート地を襲い、完膚なきまでにマイアミは破壊された。こうして米国における空前の不動産バブルは崩壊の時を迎えた。
翌1927年から1928年にかけて、メジャーな不動産会社が次々と倒産した。
彼らに莫大な金額を融資していた100行近くの銀行(フロリダ以外も多数含む)も倒産に追い込まれた。
このフロリダでの不動産バブルの崩壊がきっかけとなり、米国人のなかに「不動産よりも、苦労せず手っ取り早く儲けられる株のほうが投資にはいいのではないか」という気持ちが日に日に増幅していった。
これが1929年秋に起こる「暗黒の木曜日」への序章になっていくこととなる。
当時、米国の国家予算の規模が現在の日本円に換算して10兆〜12兆円だったのに対して、フロリダの損失額は大きいとはいえ、規模的には1000億円強程度であった。
逆に言えば、フロリダの不動産バブル崩壊は、黄金期と言われた実体経済の拡大から、株
式市場の「上昇する、高騰する」といった濡れ手に粟のバブル経済への転換を促した。
これを機に、米国経済はいよいよ本格的な「バブル経済」へ向かっていった。
時代は熱狂、狂騒へ、そして人々の心はGreed(欲望)を強めていった。皮肉にもフロリ
ダの不動産バブル崩壊は、次なる株式バブルという火に熱狂という油を注いだようなものである。
フロリダの不動産バブルが終焉へと向かうのと時を同じくして、米国のNYダウは急落を
繰り返しながらも、その都度、力強い上げを見せるようになってきた。
第一次世界大戦後も、米国経済は活況を呈し輸出が大きく伸びたのに対し、英国はインフ
レとなり経済が低迷、貿易収支の赤字は増加の一途を辿り、ポンドは減価した。そのため公定歩合を7%まで引き上げ、通貨防衛に努めたが、国内産業には大打撃となった。
戦争の影響で一時停止していた金本位制に主要国が復帰したのは、1920年前後からとなる。金本位制のもとでは赤字国のゴールドは減少、黒字国のゴールドは増加することになるが、第一次世界大戦前後からは、英国から米国へとゴールドが流出した。
金本位制のもとでは、ゴールドが増加すればその分国内の貨幣量を増やし、ゴールドが減
少すれば貨幣量を減らすルールが守られる必要がある。するとどうなるか。
黒字国:ゴールド増加→貨幣増加→物価上昇→輸出減→輸入増→赤字化へ
このメカニズムが成立することで国際収支のバランスが図られてきた。
しかし米国はこの「ゴールドが増加すれば貨幣量を増やす」というルールを反故にした。
輸出増加を背景に急増したゴールドについて、その分、増やすべき通貨供給量を増やさない「金不胎化政策」を行ったのは、国内の物価高騰を避けるためであった。また価格が抑えられた結果、米国の輸出競争力は保たれる一方で、英国の貿易には不利となった。
米国では、1926年の秋以降、株式ブームが発生しており、英国から米国へと資金が流出するようになった。また1927年以降、フランス政府が英国に滞留していた資本を大量
に環流させたこともあり、英国では赤字増大とともにゴールドの流出が激しくなった。
これを受けてG4・中央銀行総裁会議(米国、英国、フランス、ドイツ)が開催された。
イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマン、ドイツ中央銀行総裁ヒャルマー・シャハト、フランス銀行副総裁シャルル・リストなど錚々たるメンバーが米国に渡り、FRBに対して、英国からのゴールド流出防止のための金融緩和を要求したのである。
FRBはこれを吞んだ。
具体的には公定金利の引き下げと、市場の国債の買いオペレーションの実施だった。
1914年から1928年までFRBの初代議長を務めたベンジャミン・ストロングのもとで、
1927年8月に、一時的な金融緩和策として政策金利を4%から3.5%に引き下げた。
さらにFRBは市場の国債を購入する買いオペにより、市中に大量の資金を溢れさせた結果、この資金が株式市場へと流入していった。
過熱感をいち早く感じ取った大口投資家の面々は、フロリダの不動産投機から一抜け、二
抜けして、資金を引き揚げていった。「次の投資先」を求めてマネーが向かった先が、1929年9月を目指して強気相場を展開していくNYダウの株式市場であったことは言うまでもない。