「えづきやすい体質」も歯科恐怖症の一因
のどの奥のほうに指を入れると誰でも吐き気をもよおします。これを嘔吐反射といいます。体に異物が入ってきそうになったときに排出しようとして起こる、体の防御反応の一つですので、本来はなくてはならないものです。
しかしこの反応が過敏過ぎると歯科治療においては困ったことになります。のどの奥どころか口の中にちょっと器具を入れるだけでもえずいてしまい、治療が続けられないからです。酷い場合は前歯に器具の先が触ったり、唇に何か触れるだけでもえずいてしまうケースもあります。
食事の際には嘔吐反射は起こりませんが、歯ブラシでえずいてしまう人はいるようです。また、口の中だけでなく、首にアクセサリーや服のボタンなどが当たると嘔吐反射を起こす人もいます。
歯の治療はもちろん体にとって悪いことであるはずがありません。頭ではそう理解できても、いざ治療や検査のために器具が口に入ると「異物だ!」と無意識のうちに危険と認識してしまい、嘔吐反射が起こってしまうのです。
それでも、歯科治療でえずくことに多くの人はピンとこないかもしれません。のどの奥にまで器具を入れて触るのなら分かるけれど、歯科治療で触るのはせいぜい奥歯までです。それでえずいたり、歯科医院に行けなくなる人がいるなんて、と理解できないのです。しかし実はこういう人は決してまれではありません。
「治療にならない、もう来るな!」と怒鳴られた男性
私が治療を担当した患者の例を紹介しましょう。
30代男性Bさん(仮名)は嘔吐反射が強く、ワイシャツのボタンも一番上が留められないほどでした。のど元に何か軽く当たるだけでも嘔吐反射を起こしてしまうのです。当然、歯の治療のため口の中に器具を入れられるのもだめで、今までに何軒も歯科医院を受診しましたが、歯科用の小さな鏡でさえも入れられるや否や強い吐き気に襲われ、顔をそむけてしまうのです。これでは口の中を見せることもままなりません。
過去に別の歯科医院を受診した際には、「こっちだって忙しいんだ。こんなにえずいては治療にならないから、もう来るな!」と歯科医師から怒鳴られてしまったそうです。
Bさんはほかの患者からの視線も浴びてしまい、消えてしまいたいほど恥ずかしかったといいます。そして、自分は歯科治療を受ける資格がない、治療を受けると迷惑がかかる、と自分を責めるようになってしまい、その後はいっさい歯科医院を受診することができなくなってしまったそうです。
Bさんはもともと嘔吐反射は強めだったものの、それほど困ってはいませんでした。しかし子どもの頃に歯科治療を受けた際、唾液を吸い出すバキュームの先がのどに当たり、その刺激で吐いてしまったことがきっかけで酷くなってしまったとのことです。歯科用ミラーが唇に当たるだけでも、えずいてしまい、自分の意思で止めることができないので非常につらい、と話してくれました。治療に対する不安や恐怖が強ければ、嘔吐反射も強く出やすくなってしまうといえます。
嘔吐反射による恐怖症には歯科医院で吐き気がして苦しい思いをしたり、それで歯科医師に叱られてつらい思いをしたりといったネガティブな経験がトラウマになってしまうパターンと、歯科医師に対する申し訳なさから、歯科医院に行けなくなってしまうパターンがあります。
後者の場合は、恐怖症とはいえ怖いという感情よりも、どちらかといえば「また迷惑をかけてしまう、歯科医師に嫌な思いをさせてしまう、歯科医師がいやがる顔を見るのがつらい」といった申し訳なさのほうが強く、歯科医院から足が遠のいてしまう人が多いようです。
重症になると歯科治療を想像しただけで吐き気が起きたりしますが、これは生体の反応としての嘔吐反射に加え、精神的なトラウマによる反応が重なっているとも考えられます。
恐怖症を「ただの怖がり」と軽視され、二重に傷つく
恐怖のために起こるさまざまな症状の表面的な行動だけを見て「何を子どもじみたことをしているんだ」とあきれる人や、「ただのわがままだ」とばっさり断じてしまう歯科医師もいます。
しかし私がこれまでの診療を通して断言できるのは、歯科恐怖症の患者は、心のうちでは歯科医院へ行きたいという思いがあるということです。治療をきちんと受けて、きれいな口の中を取り戻したいのです。
でも行くことができず、意を決して予約の電話を入れたとしても、当日になると気分が落ち込んだり緊張したりして、足が向かなくなってしまうのです。歯科医院にたどり着いたとしても、院内に入ることができません。頑張って受付をすませたとしても治療室に入れなかったり、「やっぱり無理です」と途中で帰ってきてしまいます。
本人たちは至ってまじめです。こんな自分に嫌気がさしており、何の恐れもなく、とまではいかなくても、人並みに歯科治療が受けられるようになればどんなにいいことか、と思っています。それができないから、自己嫌悪に陥っているのです。
この気持ちは、歯科恐怖症でない人にはなかなか分かってもらえません。「根性がない」とか「気持ちの問題」とか人間性を否定されるような言葉を投げつけられ、余計に傷ついてしまいます。
またそこに至る経緯も、身内や親しい人ならまだしも、進んで人に話せるものではありません。仮にどんなにつらい思いをしたか話せても、聞いたほうは多少は同情しても、それがここまで恐怖心を抱かせてしまうものかなあ、とあまりピンとこないものです。結局「怖がり」とか「神経質になり過ぎ」と思われるのが関の山です。
やらなければならないことがあるのに、体が思うように動かない経験は、歯科恐怖症に限らず、誰でも多かれ少なかれ経験があると思います。
恐怖症になってしまったからといって「私は何が何でも、今後いっさい、歯科治療を受けません!」などと決め込んでいる人などいないのです。皆、自分の中で「治療を受けなければ」という気持ちと「でも怖い」の気持ちがせめぎ合っており、心にいつも葛藤を抱えているのです。
山本 彰美
大阪中之島デンタルクリニック 院長