(※写真はイメージです/PIXTA)

歯科治療を極度に恐れ、さまざまな拒絶反応があらわれてしまう状態を「歯科恐怖症」といいます。国内では500万人前後が歯科恐怖症で歯科受診を避けていると推測されており、決してまれとはいえません〈Dental Medicine Research 34(1) 45-48(2014)〉。誰しもなりうる「歯科恐怖症」について、歯科医師・山本彰美氏が解説します。

むし歯治療で激痛を経験し、受診できなくなった男性

Aさん(仮名)は大学4回生になる男性です。本格的な就職活動を目前に控えて大きな悩みを抱えています。それはむし歯だらけの口の中です。前歯はまだしも、奥歯が上下左右ともぼろぼろで、根っこしか残っていない歯がいくつもあり、とても見た目が悪いのです。就職前に、治療に行かなければ…気持ちは焦るのですが、その気持ちとは裏腹に、Aさんはどうしても歯科医院に行くことができません。

 

中学生の頃、奥歯がむし歯になっていたのをしばらく放っておいてしまい、かなり痛みが増してきたので近所の歯科医院へ行きました。そのとき治療中に激痛を経験してから、歯科医院は怖いところと思い込むようになってしまったのです。

 

あれから10年近く治療を受けていないので歯の状態は悪化する一方です。むし歯の本数は増えていき、奥歯だけでなく前のほうの歯も痛みやぐらつきが出てくるようになってしまいました。一度勇気を振り絞って別の歯科医院を受診したことがあります。そこは「無痛治療」と看板を掲げているところだったので、大丈夫かもしれないと思ったのです。

 

ところがその歯科医院が近づくにつれて足が重くなり、ドアを開けるときにはドキドキが止まらず、やっとの思いで受付をすませて治療室に入った途端、緊張のあまり体がつっぱり泣き出したくなってしまいました。子どもじゃあるまいし、治療前からこんなことでは…とがまんして治療を受けようとしましたが、歯科医師が口の中の様子を見るための器具を入れただけで体がこわばり、冷や汗がだらだら出てきます。

 

そしていざ治療が始まるとAさんは耐えられず、「待ってください」と制止します。それが何度も続くので、歯科医師もだんだんイライラした表情になってきました。その挙句、「こんな怖がりでは、うちでは治療できない」と、Aさんは突き放されてしまったのです。

 

結局、歯は治せずじまいでAさんはますます歯科医院が怖くなり、また自分のふがいなさを責めるようになってしまいました。

 

その間にもむし歯はどんどん悪化していきます。痛みが我慢できないときは市販の鎮痛薬を飲んだりしてしのいでいました。

 

このままでは就職活動に集中することができず、毎日とても不安です。だんだん、口臭もするようになり学友からもなんとなく避けられているような気がします。

 

これから就職活動が始まれば、企業の人事など多くの人と会わなければなりません。しかしこんな歯では自信をもって話せず、とても就職できるとは思えないとすっかり落ち込み、就職活動をする気にもなれません。

 

そのうち頭痛やけん怠感、めまい、不眠などの不調に悩まされるようになりました。気分も晴れず、急に得体の知れない不安感や、もう自分はだめだ、と絶望感に襲われるようになり、部屋にひきこもるようになってしまったのです。

「怖くて歯科医院に行けない」はれっきとした恐怖症

歯科医院は多くの人にとって、腰が重くてできれば行きたくないところだと思います。

 

そもそも歯や口は、体の中でもとても敏感な部位です。例えば口の中に髪の毛が入ると、気になってすぐさま取り出そうとします。しかし肩や腕に髪の毛がついていてもそれほど気にならないのではないかと思います。

 

体の中でデリケートな部分である口の中で歯を「キーン」「ガリガリ」と音を立てて器具で突いたり削ったり引っ張ったりするわけです。頭部に近いので、その音や衝撃は手を動かしている歯科医師の感覚より何倍にも増幅され響くものです。それは別に特別な恐怖心がない人であっても、不安なものです。口をずっと開けているのもつらくなります。

 

口の中を見せることは、生き物としては非常に無防備な状態といえます。長時間、口を開けたままでいると、「何かされるのではないか」と不安で仕方なくなります。また、治療中に唾液などの水分が口の中にたまり、自分ではどうにもできないでいるのは気持ちのよいものではありません。

 

口を開けたままでいると、言葉を発することもままなりません。内科や整形外科であれば治療中に痛みや不快感があれば言葉ではっきり意思表示できますが、歯科ではそれができないので、イライラを募らせてしまう人も多いです。歯科治療とは、そんな不自由で苦痛を伴う治療が当たり前との認識が、世間に浸透しています。

 

大半の人が、内心いやだけれど歯科治療とはこんなものと思っています。よほどのことがない限り、滞りなく治療が行われるよう、そんな苦痛を受け入れ順応しているのです。

 

しかし冒頭のAさんのように、どうしてもがまんができない人もいます。苦痛のあまり歯科医院に行けなくなってしまうと、事は深刻です。Aさんは歯科に対する強い恐怖心のために、治療に拒絶反応を示してしまう、歯科恐怖症になってしまったのです。

 

歯科恐怖症とは正式な病名ではありません。歯科治療に対し痛い、怖いなどネガティブな感情が強いあまり、歯科医院に行っても治療を満足に受けられないようなさまざまな症状が出てしまうことを指します。極度の恐怖と不安から気分が悪くなり、場合によっては動悸やめまい、震え、大量の発汗、過呼吸などの症状があらわれるのです。

 

普段の生活ではほかの人と同じようにふるまえるのに、歯科医院に行ったときだけ治療に支障をきたすような症状を起こしてしまうのです。

 

酷くなると、歯科医院に行くことすらできなくなってしまいます。歯科医院へ行っても治療が受けられず、歯科医師にあきれられたり怒られたりすることが続けば、足が向かなくなるのも無理はないでしょう。歯科医院の前を通ったり、看板を見たり、歯科治療のことを考えるだけでも気分が悪くなってしまうようになると、重度の歯科恐怖症といえるでしょう。

 

こうした恐怖症と呼ばれる状態は、精神科の領域ではほかにもいろいろなものがあることが知られています。

 

例えば高いところが苦手な高所恐怖症、とがったものが怖くて見たり触ったりできない先端恐怖症などは一般的にもよく知られているものの一つです。ほかにも虫、鳥といった生き物、雷や水などの自然現象、対人恐怖症など対象は多岐にわたります。何か特定のものに強い恐怖を抱き平常心でいられなくなり、震えが止まらなくなったり失神してしまったりと、心身の状態に著しい反応があらわれてしまうのです。

 

誰しも一つくらいは苦手なものや怖いものはあるものです。しかしその程度が過剰なために、日常生活に支障をきたしてしまうのが恐怖症です。歯科恐怖症ではない人が「歯科医はいやだ」「痛くされたらどうしよう」と思ったとしても、それをおかしいと思う人はいません。一般に、適度な不安は緊張感をもたらし集中力を高めるため、仕事や運動競技を行う際のパフォーマンスを高めるといわれています。

 

しかしそれが度を超すと、何かしようにも不安でできない、不安でどこにも行けないなど、かえってその人の行動範囲を狭め、パフォーマンスを低下させてしまいます。恐怖症はその典型、といえるでしょう。周囲からすると「怖いものがあって当たり前」「そんなに怖がるほどでもないでしょう」と思うかもしれませんが、恐怖症で悩んでいる本人にとっては一大事なのです。

 

歯科恐怖症もその一つといえます。深く悩んでしまうがあまり、うつ病などのほかの精神疾患を併発してしまうこともあるといわれています。

歯科恐怖症の原因とは?

歯科恐怖症の原因の多くは、過去に受けた歯科治療で痛い思いをしたり、治療で怖い思いをしたことによるトラウマです。

 

トラウマは心的外傷=心の傷といい換えることができます。普通は何かいやな経験をしたとしても、時間の経過とともに傷が癒えていくのと同じように、そのときの悪い感情は薄れていきます。思い出すことがあったとしてもそれはもう過去のものとして冷静に受け止めることができるようになるものです。

 

しかしそのいやな経験があまりにも怖かったり、命の危険を感じるほどの強い衝撃を伴っていた場合、いつまでも悪い感情が薄れず記憶に残ってしまい、ふとしたきっかけでよみがえってきてしまうのです。

 

当時のことなど思い出したくも考えたくもないのに、自分の意思とは関係なくよみがえってきてしまうので心が揺さぶられ、混乱してしまいます。そしてもう一度、当時の出来事を体験しているかのように感じられてしまうのです。

 

すると脳は危険を察知し、避けるように指令を出します。例えば道を歩いていて、向こうから自転車が近づいてきたら、ぶつからないよう端に寄ったりすることがあります。それは視覚が自転車をとらえた際、脳が「避けて」と指令を出したから、そうしているのです。これはごく普通の反応であり、安全を確保するために必要であるともいえます。

 

しかし、もし避ける必要もないのに脳が過敏に反応し、指令を出し続けたらどうなるかというと、自転車が来てもいないのに、来るかもしれないという不安感に襲われます。そして安心して道を歩けなくなったり、酷くなると外にすら出られなくなってしまうようなことが考えられます。

 

これが恐怖症の人にはしばしば起こってしまうのです。つまり端からみると「このくらいで?」と理解に苦しむようなきっかけで強い不安や恐怖に襲われ、泣き出したり、取り乱したりなどの拒否反応を示してしまうのです。

 

歯科恐怖症の場合、口に器具が入っただけで怖くなるとか、恐怖で口が開けられないとか、治療椅子に座れないなどというケースがよくあります。過去のつらい記憶が自分の意思と関係なく呼び起こされ、脳が過敏に反応し、危険だと指令を出してしまうのです。

 

近しい人はともかく周囲には事情が分かりませんから、奇異な目で見られてしまいます。

 

そのため本人は自己嫌悪に陥り、なんてふがいないだめな人間だ、などと自分を責め立てたり、自信を失ったりします。周囲にとっては「歯科くらいで」であったとしても、恐怖症の当事者にとっては人生のかせ、命の危険を感じるほどの存在になってしまっているのです。

一方、ささいなことがきっかけになることも

さらに過去の治療ですごく痛い思いをした、といった明確なエピソードがなくても恐怖症になってしまうことはあります。

 

私のクリニックで治療を受けたある患者は、過去に他院で麻酔をされ気分が悪くなった経験をし、それ以降、歯科治療全般が怖くなり、歯科医院に行けなくなってしまったと話していました。

 

別の患者は以前行った歯科医院で、治療台に置かれた器具に汚れがついたままだったのを見てしまい、その瞬間から歯科治療への強い嫌悪感を抱くようになってしまったといいます。ほかの歯科医院も器具をろくに洗浄消毒せず使いまわしているのかもしれない、との疑念でいっぱいになり、それ以来治療を受けられなくなってしまったそうです。

 

また治療室に漂う薬品のような匂いがいやだったとか、床にごみが落ちていて不衛生だったとか、スタッフの対応が悪かったとか、治療に直接関係ないことでも、歯科治療への嫌悪や怖さを抱くきっかけになってしまうことは多々あります。

 

「そんなことくらいで⁉」と驚かれるかもしれません。しかし同じ出来事を経験しても、どう受け取るかは人それぞれです。

 

昔飼っていた小鳥を思い出すから鶏料理がどうしても食べられないという人や、子どもの頃観たホラー映画があまりに怖くて、部屋を真っ暗にして寝られなくなったというような例えを出すとそういえば自分にも当てはまると、過去の経験が今の自分に影響していることを何か一つくらいは思い出すことがあります。物事の受け取り方は、それまでの経験や、信条・価値観などによって大きく違ってくるといえます。

 

 

山本 彰美

大阪中之島デンタルクリニック 院長

 

※本連載は、山本彰美氏の著書『歯科恐怖症患者を救う!スゴイ無痛歯科治療』(幻冬舎MC)より一部を抜粋・再編集したものです。

歯科恐怖症患者を救う!スゴイ無痛歯科治療

歯科恐怖症患者を救う!スゴイ無痛歯科治療

山本 彰美

幻冬舎メディアコンサルティング

歯医者に来ると身震いしてしまう。怖くて口を閉じてしまう…。 そんな歯科恐怖症で悩む患者を救う! 眠っている間に治療が終わり、長期通院も必要なし! 痛みと恐怖心を取り除く無痛歯科治療とは?

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