漢字も仮名も、1文字も書けない
この頃のオットの「読む力」は短文で80%、「書く力」は単語で0%。漢字も仮名も1文字も書けない。まるで脳の中の「文字」がマッサラになったようだった。
パソコンを操作しているとき、うっかり文章を削除してしまうことがある。どうにか復活しないか、あちこちクリックしてみるけれど、どこを探しても「文字」が見つからない。鉛筆を手に途方にくれているオットは、そんなときの私に似ていた。こうなったら、じたばたしてもしかたない。気をとり直して、一から書き直すしかないのだ。
オットの「書く」練習は、そんなふうに始まった。
まずは自分の名前から。言語聴覚士のお手本を見ながら、マネして書く。文字を思い出せないので、図形を模写するのと同じだ。線がカクカクして、書き順も適当。この練習を何日も繰り返しているうち、やっと自分の名前だと気づいたのだろう。文字も思い出したらしく、書き順が正しくなった。線もなめらかになり、病気をする前のクセの強い字に戻っていった。
言語聴覚士のリハビリでは、毎日、宿題が出た。私が病院に行くと、オットは病室や食堂でプリント課題をしている。絵を見て名前を書く練習だ。「犬」「いぬ」「イヌ」。プリントを指さして「3つあるから難しいんだよ」と訴える。漢字、ひらがな、カタカナ、覚えることがたくさんあって大変だと。そうだねえ。
特にひらがなとカタカナは、マネして書くのも難しいようだった。どうやら文字というよりも、模様のように見えるらしい。ひらがなもハングル文字もアラビア文字も、オットにとっては同列なのだ。
その代わり、漢字は理解できることが多かった。声に出して読んだり、書いたりするのは難しいけれど、意味はわかることがあるらしい。雑誌をながめて、知ってる人の名前や土地の名前が出てくると、おお! と反応する。誰かのことを言おうとして言葉にできないとき、漢字で書いてある名前を指さして「この人」と伝えることもあった。
漢字は文字に意味があるから、パッと見て理解しやすいのだ。私が中国語の看板を見たとき、なんとなく意味がわかるのと同じだね。
漢字、ひらがな、カタカナ、3つあってよかったね。