「自分の言葉」で気持ちを伝える最後の機会
付言事項は、その人が残す文字通りのラストメッセージになります。だからこそ、型通りの、紋切り型の言葉ではない、自分の言葉でありったけの思いを伝えてほしいと思います。
普段は使わないような言葉、気恥ずかしいと思うような言葉でも構わないでしょう。たとえ、そのような言葉を使っても、「お父さんは意外とロマンチストだったんだな」と子供はむしろ評価してくれるはずです。
あるいは、「さすがお父さんだ。最後に締めるところはしっかりと締めてくれた」と思うかもしれません。最後まで格好いい親だったことを、子供は誇りに思うはずです。
そして、人はいくつになってもほめてもらいたい、自分の存在を認めてもらいたいという気持ちを失わないものです。いや、むしろ、子供の時と違って、ほめられるような機会が少なくなるだけに、なおさらそのような思いを抱くようになるものです。
ですので、少しでもほめられるところがあるのならば、最後に付言事項でいっぱいほめてあげましょう。ほめられる者にとっては、それが最後の機会となるのですから。
場合によっては「ネガティブな思い」を伝える手も
もっとも、付言事項では、愛情や感謝のようなポジティブな思いだけを伝えなければいけないというわけではありません。場合によっては、逆に、生きている間には言えなかったような、恨みつらみ、不満といったネガティブな思いを伝えても構わないのではないかと思います。
例えば、次のような事例はいかがでしょうか。そのお宅には被相続人と妻、それから2人の子供がいました。そのうち長男夫婦が暮らしている住まいは、被相続人の所有する隣地に建てられていました。
しかし、被相続人と長男夫婦は大変折り合いが悪かったようです。すぐ隣に両親の家があるにもかかわらず、長男が訪れることはほとんどなく、まれに来ることがあっても金銭の無心をするだけで、ましてや仏壇にお参りをするようなことはありませんでした。
「無心」の「心」とは、「遠慮」や「人の気持ちを思いやる心」のことであり、思いやる気持ちなく、無神経に金品をねだるという意味なのかもしれません。
また、長男の妻の方は1年以上足を運ばないことも珍しくありませんでした。しかも、長男の妻の希望からお互いのプライバシー確保のため、長男の家と両親の家の境界上には2m近いフェンスが作られており、お互いに行き来ができないようになっていました。どうも「視線が合うのが嫌、こちらには好き勝手に来ないでほしい」という長男夫婦の意思の表れだったのでしょうか……。
ある時、父親が病で倒れたことがありました。本来であれば、隣に住んでいる長男夫婦に連絡をするのが自然ですが、近所の知人に助けを求め、救急車を呼んでもらったそうです。
次回に続きます。