そもそも「学校の標準」が狭すぎるのではないか?
発達の特性は必ずしも困りごとにつながるものではありません。しかし発達の特性がある子は学校生活において、何かと困りごとに直面しがちです。ほかの大多数の子どもよりも、困難が多いように感じます。それはなぜでしょうか。
私はその要因の一つに「学校の標準が狭すぎること」があると考えています。いまの日本の学校には、子どもが「標準的にやるべきこと」が多すぎます。
子どもは持ち物をそろえて始業時間までに登校し、提出物があれば先生に渡す。登校の際には先生や学校の職員、友達に元気よく挨拶をする。授業が始まったら席に座って、正しい姿勢で静かに先生の話を聞く。授業中にはノートをとり、適度に発言や質問をする。道具は自分の机やロッカーに丁寧に片づける。そして放課後にはその日の宿題に取り組む…そのような行動をすべて着実にこなすことが、「学校の標準」になっていないでしょうか。
私は、いまの学校では子どものやるべきこと、守るべきことが多すぎて、「標準」が狭くなっているように感じます。その「標準」をこなせる子はよいのですが、発達の特性がある子は、すべての活動を「標準」に合わせるのは難しい場合もあります。
例えば「不注意」の特性が強くてそそっかしい子は、いくつかの場面で「標準」に当てはまらず、はみ出してしまうこともあるでしょう。そのような形で、子どもの困りごとが増えているという側面があります。
「学校内のローカルルール」は少ないほうがいい
学校には多くの子どもたちが集まっています。集団で活動するためには、一人ひとりが一定のルールを守ることが欠かせません。ですからなんらかの「標準」は必要です。子どもたちが学校で集団行動のルールを学ぶことには、意味があると思います。
しかし、ルールが細かくなりすぎると、それがいじめの温床になることもあります。例えば「校舎内の廊下は左側を歩きましょう」という決まりをつくることは、衝突を避け、人の流れをスムーズにするためには有効です。しかし、それを破ったら罰を与えるような厳しいルールにしてしまうと、ある子どもが右側を歩いたときに、ほかの子がそれを強く注意したり、先生に言いつけたりすることが出てきます。ルールから少し外れただけで、非難するような風潮ができていくわけです。
そのような環境では、ルールからはみ出すことが多い子はいつも誰かに注意され、監視されるようになっていきます。結果として、その子は学校生活に不安や緊張を感じるようになり、また、場合によっては、その子だけがいじめられているような状態になってしまうこともあるのです。
私は、学校内のローカルルールは、少なければ少ないほどよいと思っています。
子どもたちが社会性を学ぶことは重要ですが、そのために大人がやるべきことは、あれこれと細かいルールを設定して、子どもに押しつけることではありません。大人・子どもを問わず守るべきルールは、国の法律や自治体の条例だけで十分です。
子どもが法律をきちんと学び、結果として、法律は家庭生活や学校生活にも活かされているのだということを学べば、それで十分でしょう。法律を学べば、人を傷つけてはいけないということを理解できます。「誰かがルールを守らなかったからと言って、その人をいじめてはいけない」ということも理解できるはずです。