バブル崩壊から30年、日本人の給料はほとんど伸びておらず、また、現状においては伸びる見通しも立っていません。なぜこのような状況になってしまったのか。そこには「タテ社会」という社会構造的な問題点がありました。本記事では、日本における労働分配率の低下と賃金の低下について、各方面の研究を取り上げながら、その原因を読み解いていきます。

制度的ミスマッチで起きた「労働分配率&賃金」の低下

我が国ではバブル崩壊後、銀行と大企業の間の株式持合いとメインバンク制が消滅し、それと入れ代わるように外国人投資家が増加しました。そして、企業は株主中心の経営を行い、資本への分配率を増やして自己資本比率を上昇させる一方、労働分配率を下げました。

 

労働市場は終身雇用の慣行と年功序列賃金制で流動性が低いため、転職が困難な従業員が、賃金より雇用を選んだことが、その理由です。

 

わが国は「流動性の高い株式市場」と「流動性が低く、円滑な労働移動が困難な労働市場」の制度的なミスマッチのため、米国以上に労働分配率が低下して賃金が低下しました。

 

これを是正するには、株主の姿勢がESG投資へと変わること等もありますが、やはり、わが国の「タテ社会」の封鎖性に由来する、流動性の低い労働市場の一部を流動化することだといえます。

なぜ労働分配率は低下し、賃金は伸びないのか?

わが国の労働分配率が低下していること、そして長期にわたって賃金の上昇が起こらないことについての部分的な研究はあるものの、制度的な観点からの研究は行われていないのではないか。そのように考えたことが、筆者の執筆の動機となっています。

 

我が国の株式市場は1990年代にバブルが崩壊し、銀行は不良債権の処理が課題となりました。

 

そして、国際的な自己資本比率規制である「バーゼルI」が導入されたことから、銀行は株式持ち合いを解消する方針を取りました。そして、株式市場において、その売却された株式の受け皿となったのが外国人投資家であり、現在、わが国の株式市場での保有割合では約30%のシェアを占めています。

 

メインバンク制と株式持ち合いを制度的装置としてきた日本的経営は、グローバル化した株式市場からのプレッシャーを受けて株主中心の経営へと向かい、企業は銀行借入を返済し、上場企業の企業金融は株式市場中心の制度にシフトしました。そして、内部留保を増加させ、自己資本比率を高めて財務体質を強化し、収益性は高いがリスクも高いM&A等よる海外投資等へと向かいました。そしてこの動きは、内部留保を高め、労働分配率を低下させる形で進行しています。

 

本記事では、労働分配率の低下に着目し、わが国の賃金の下落はグローバル化した金融資本市場と従来のままの固定的な長期雇用慣行が主流の労働市場のミスマッチが原因であり、雇用の一部を流動化し、円滑な労働移動が可能な状況にすれば賃金の上昇が起こるとの、政策提案を行いたいと考えています。

これまでなされてきた先行研究

【1】 金融資本市場と雇用制度

この領域の先行研究として、まず最初に、わが国の金融資本市場と雇用制度に着目した研究を紹介したいと思います。経済学者の青木昌彦氏は、企業の解散・清算などといった最悪事態において職を失う従業員の再雇用価値が低くなればなるほど、言い換えれば、他企業も長期雇用の慣行を有していて、従業員の外部オプションが限られているほど状態依存的ガバナンスのインセンティブは高まるのであり、この意味でメインバンク制度と長期雇用の慣行は情報共有型の組織の生産性を相互強化する補完的な制度体系をなしていると解説しています※1

 

※1 青木昌彦『比較制度分析序説』講談社、2008年、44頁。

 

つまり、比較制度分析的には、米国のような流動的資本市場と流動的労働市場は制度的補完性があり、他方、わが国の1980年代までの銀行中心の金融システムは終身雇用の慣行のような流動性の低い労働市場と制度的補完性があるということです。

 

「株式持合い」という固定的株式市場と終身雇用の慣行を柱の一つとする日本的経営について、経済学者の池尾和人氏は、現代の企業で望ましい熟練の蓄積が実現され、企業価値の最大化が達成されるには中核従業員と株主の役割を逆転させることが必要であるとしています。そして「まさに株式持合いこそが、こうした役割逆転を可能にしていうものであり、日本的経営を可能にしている最も重要な制度的装置である」※2とも著書のなかで語っています。

 

※2 池尾和人『現代の金融入門 新版』筑摩書房、2010年、174-177頁。

 

企業の長期雇用の慣行とタテ社会については、城西短期大学元教授の杵渕友子氏が、日本企業の年功序列、メンバーシップ型社員、ジェネラリスト養成といった勤労施策は「タテ社会」の構造的力学の産物であるとの見方を示しています※3

 

※3 杵渕友子「日本的雇用制度再考「タテ社会」の力学を基礎に」」『城西短期大学紀要』第 32巻 第1号、2015年、1-13頁。

 

【2】 雇用の流動性と賃金

第二に、雇用の流動性と賃金上昇の前提となる生産性について、三菱総合研究所によると、米国では雇用の流動性低下は生産性の伸びを抑制する可能性があるといいます。まず、雇用の流動性低下によって生産性の低い仕事から高い仕事への労働者のスムーズな移動や、低い生産性の企業の退出と高い生産性の企業の参入が阻害されれば、生産性の伸びが抑制されます。因果関係の解釈には留意が必要ですが、過去の雇用の流動性と労働生産性の正の相関がこれを裏付けています※4

 

※4 三菱総合研究所「流動性低下が気がかりな米国労働市―生産性の伸び抑制につながるか―」
https://www.mri.co.jp/knowledge/insight/i6sdu60000016bpw-att/mer20150714.pdf (2022年1月18日入手)

 

つまり、米国では低い雇用の流動性と生産性の悪化には相関性があるのです。

 

また、慶應義塾大学商学部教授の山本勲氏、早稲田大学教授の黒田祥子氏は、日本的雇用慣行、すなわち従業員の定着率が高い・メンタルヘルスがよい・教育訓練を実施している・離職率が低い等の特徴がある企業では中途採用のウエイトを高める形で雇用の流動化を進めると、利益率や労働生産性が上昇する傾向があるとしています。このことは、多くの日本企業が雇用の流動性を高めることで利益率が向上する可能性があることを示唆しています※5。日本も適切な雇用の流動性がある方が企業の収益が改善する状況になっており、円滑な労働移動が可能な労働市場が必要となっているのです。

 

※5 山本勲・黒田祥子「雇用の流動性は企業業績を高めるのか:企業パネルデータを用いた検証」『RIETI Discussion Paper Series』経済産業研究所
https://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/16j062.pdf(2021年9月13日入手)

次ページ【3】労働者の賃金交渉力 【4】外国人投資家と労働分配率

※本記事は日本産業経済学会に発表された論文「タテ社会と賃金(Japanese society and Wages)」を再編集したものです。

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