ここ数年、日本の貧困化への強い危機意識が、国民の間にも浸透してきました。統計を見ても、20年間で給与所得の伸びはほぼゼロであり、アメリカやドイツといった先進国から大きく水をあけられています。調査の結果、柔軟な変化に対処できない日本独特の「タテ社会構造」に問題の原因があることが見えてきました。解決策はあるのでしょうか。

労働分配率を引き上げ、賃金の上昇を起こすには

これまで、記事『【日本人の賃金】貧しさからの脱却を困難にする「タテ社会」の構造的問題点』『【止まらない日本の貧困】労働者が「雇用の安定」と引き換えに呑んだ「賃金抑制」という苦しすぎる条件』において、労働分配率と賃金の問題について言及してきました。ここでは、労働分配率の引き上げと、賃金引き上げについて考察していきます。

 

低下している労働分配率を引き上げて賃金の上昇を起こす方法としては、一つには株式市場と労働市場の制度的なミスマッチはそのままとして株主の声の内容を変えることが考えられ、それがSGDsと表裏の関係にあるESG投資であるといえます。

 

ESG投資の効果について、日本証券アナリスト協会の企業価値分析におけるESG要因研究会は、ESG評価と労働分配率の関係について分析し、「労働分配率に対しては有意にプラスとなっている」※1としています。

 

※1 日本証券アナリスト協会企業価値分析におけるESG要因研究会「企業価値分析におけるES因」日本証券アナリスト協会、2010年、32頁。

 

企業の競争力が最終的に人的資本に依存する以上、問題は競争力を担う人材の形成と活用に帰着するのですから、労働者への報いの少ない企業に良い人材が集まるとは考えにくいでしょう。エーザイの専務執行役CFOの柳良平氏は、「エーザイでは人財に10%追加投資すると、5年後に約3,000億円の価値を事後的・遅延的に創造できる」※2と述べています。

 

※2 柳良平「ESG会計の価値提案と開示」『月刊資本市場』第428号、2021年、36ー45頁。

 

ESGの項目として労働分配率が取り上げられれば、一定の効果はあるでしょう。

 

例えばステート・ストリート・グローバル・アドバイザーズ株式会社代表取締役社長の高村孝氏等によると、資産運用会社のステートストリート・グローバル・アドバイザーズは、2017年の国際女性デーに、日本を含む世界中の企業約6000社へ「取締役に女性を必ず1人は入れなさい。入れなかったら(株主総会で)反対票を投じます」という書簡を送付しました。

 

この結果、女性取締役のいなかった1463社のうち789社が女性を取締役会に入れました※3。資産運用会社の影響力は、たとえ株式を売却せずとも大きいといえます。

 

※3 高村孝・西岡明彦・萩野琢秀・横手実・坂口和子「ニューノーマルな社会への資産運用会社の対応」『証券アナリストジャーナル』第59巻 第59号、2021年、35-47頁。

 

そして、明治大学商学部教授の三和裕美子氏によれば、日経平均銘柄の国内外の資産運用会社(直近上位50社)の持ち株比率は1999年には1%も満たなかったが、2020年には30%を超えており※4、こうした状況では資産運用会社の投資方針がわが国の企業の行動に影響を与えることは間違いないとしています。

 

※4 三和裕美子「経済教室 企業統治に求められる視点㊦ 機関投資家の役割重要に」日本経済新聞 2021年9月8日 朝刊27面。

 

また、別の対処策としては、ドイツのように会社法を改正して制度的に従業員の声が反映されるようにし、株主の声との調整を図ることがあります。ドイツの制度は従業員をパートナー的な存在としており、わが国でも導入を検討する価値はあるでしょう。

 

しかし、こうした株主の声の内容を変容させる取組みや、従業員参加の制度の検討に加えて、やはり流動性の低い労働市場を変化させて流動性を高め、従業員に転職というオプションを与え、賃金交渉力を高めて企業が賃金を引き上げるようにすることが必要ではないでしょうか。

「一定数の執行役員を、中途採用者から選出する」方法

そこで、対処策の柱としては日本社会の特徴であって社会人類学者の中根千枝氏が指摘したタテ社会に、ヨコ社会の要素を組み合わせることにより風穴を開けて、開放性のあるタテ社会を目指してはどうでしょうか。

 

中根氏は、著書の中で「タテの持つ封鎖性」※5が問題を引き起こしていると指摘しています。

 

※5 中根千枝『タテ社会と現代日本』講談社、2019年、125頁。

 

現在の企業組織は、中根氏の指摘したタテ社会がベースになっています。タテ社会では新参者は社会の一番下から入るのが自然で、新卒一括採用が普通であり、中途入社の者はソトからの人として扱われて組織に入りにくく、転職は職場への適応の点でも不利となります。

 

この「タテ社会」に風穴を開ける具体的な方法として、政府が大企業に対して幹部従業員、すなわち執行役員の一定の数を中途採用者から選出するという目標を課してはどうでしょうか。

 

東京大学大学院人文社会系研究科社会心理学研究室助教の岩谷舟真氏、東京女子大学現代教養学部心理・コミュニケーション学科専任講師の正木郁太郎氏、東京大学大学院人文社会系研究科教授の村本由紀子氏によると、日本社会という同一の労働市場にいる人々の間でも、そこでの職務遂行能力の高さによって当該個人を取り巻く環境の流動性が異なるといいます。

 

対人関係や集団の閉鎖性が高い低流動性社会では、一度他者から排斥されてしまうと新たに対人関係を結ぶことが困難であり、最悪の場合社会的孤立の状態に陥るリスクが存在すため、低流動性社会の人々は社会的な評判の低下に敏感であり、自らの評判を低下させないようにふるまう傾向があります。エリート層は評判低下のコストを恐れずに転職し、新天地で新たな人間関係を築けるので、評判低下のコストはますます小さくなります※6

 

※6 岩谷舟真・正木郁太郎・村本由紀子「労働市場における個人のパフォーマンスと流動性の関連について―組織風土・移動コストの調整効果に着目して-」『経営行動科学』第31巻 第3号、2020年、101-116頁。

 

つまり、将来の執行役員の候補者となるようなエリート層は、潜在的な流動性が高いと考えられます。こうした人々をターゲットにした流動化目標を政府が講じることが、雇用全体の流動性を高め、転職というオプションを得て従業員の賃金交渉力を高めます。

 

東京都立大学経済経営学部経済経営学科教授の松田千恵子氏によると、現在のガバナンス改革が進むと社員は「なんらかのプロフェッショナル」として成果を社内外で評価されるようになり、これは、現在、注目を浴びている「ジョブ型」論議とも整合性があるといいます。才能ある人材ほどそれを生かす機会を求めて移動することが増えるのです※7

 

※7 松田千恵子「新時代の企業統治⑦」日本経済新聞 2021年8月25日 朝刊30面。

 

実際、既に2021年6月のコーポレート・ガバナンス・コードの改訂において、「管理職における多様性の確保」について女性と外国人に加えて中途採用者が追加されています。

 

多様性の確保の対象として中途採用者が追加されたことにより、封鎖的なタテ社会、上司の意向に逆らえない日本の企業に風穴が開くのではないでしょうか。そして、非正規雇用、受験競争、パワハラ等行き過ぎたタテ社会に由来する問題も改善しやすくなるのではないでしょうか。

 

例えば、総合商社の双日は、管理職ポストにおける中途採用者の割合は約2割程度、役員ポストは約3割を占めています。今後も毎年の新規採用者数の約3割程度を中途採用者としていく予定であることを公表しています※8

 

※8 双日「コーポレートガバナンス」双日ホームページ、2021年
https://www2.jpx.co.jp/disc/27680/140120220615580060.pdf (2021年9月26日入手)

 

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