戦後最大の危機…日本を救ったのは「工業技術」
戦後、オイルショックが起きるまで、日本を含む工業国は安価なエネルギー資源に依存して成長してきました。しかし、公害問題を含め、生産要素や製品の社会的・経済的なコストを気にせずに投入・生産、そして消費できる時代は終わりました。
この戦後最大の危機(当時)を乗り越えたのも、工業技術でした。
たとえば、環境面では、エンジンの燃焼効率改善や低騒音化、触媒の使用による汚染物質の酸化・還元、重油脱硫、集じんや排煙脱硝・脱硫、排水処理などの技術の向上が挙げられます。
また、『マイクロ・エレクトロニクス革命(ME革命)』によって、製造機械の制御に多くの半導体が利用されて自動化が進み、産業用ロボットや数値制御(NC)工作機械、マシニングセンターなどに応用されました。
合わせて、代替エネルギーとして原子力開発が進められ、重電メーカーは原子力発電の分野で省エネの技術を蓄積し、また、重電設備を制御するシステム開発を進めました。
危機をきっかけとして、環境や省エネ、省力化・自動化の技術を蓄えた日本の製造業は、1980年代に、自動車や半導体をはじめ工業製品の輸出で(貿易摩擦が生じるほどに)世界を席巻しました。
当時の日本の技術とは、自動車やエレクトロニクス製品といった「上物」というよりも、その中に隠れている環境や省エネ、省力化の技術でした。たとえば、ヘッドフォンステレオの中核は、安価かつ長時間、移動しながらの使用を可能にするリチウムイオン二次電池であったわけです。
加えていえば、1979年の第2次オイルショックを他国に比べて小さな痛みで乗り越え、80年代の飛躍を可能にしたのは、日本企業の技術力だけではありません。
オイルショックがもたらした不況やコスト高を受け、企業は、遊休資産の売却、在庫率の引き下げ、配置転換や一時帰休、臨時雇用の増加といった雇用調整など、『減量経営』と呼ばれた厳しい合理化を進めていきます。
また、企業は、自主的に業務や作業の改善を行う『QCサークル活動』を奨励し、被雇用者たちは(自分たちの雇用を守るため)これに積極的に取り組みました。こうしたなかで、ジャストインタイム方式や、かんばん方式などが拡大していきました。