経験なし、看板なし…元記者の私も当初は苦労の連続
私の入社前の転職先には、広報担当者はいたものの、広報部という組織はありませんでした。1年間のメディア掲載数(報道)は10件前後にとどまっていたことから、会社の知名度や認知度が低いことが弱点でした。
メディア露出は1か月に1件あるかないか、しかも、どのメディアに掲載されるか決まっているわけでもありません。これでは知名度や認知度が上がるはずがないと思いました。
そこで私は、入社直後に広報部を立ち上げ、メディアへの記事掲載数を増加させることと、それを通じた知名度向上を目標に掲げました。
そして「メディア掲載を1年で今の10倍の100件以上に増やすことができなければ、僕はこの仕事に向いていない。その時はこの仕事に向いている人か、PR会社を改めて探してもらおう。自分は今の会社を辞めて、ジャーナリストに戻ろう」と決めました。
不退転の決意で自分なりの目標を決めたものの、最初は名刺の引継ぎがほとんどないために、各メディアの電話番号さえもわからない状況でした。そうした意味では、私の入社時の広報部は、現在の読者の皆さんの会社よりもずっと遅れていた、と言って良いかもしれません。
私は「ダメでもともと。立ち止まっていても仕方がない」と考え、ひとまず新聞社に入社した時から先輩に教えられて使っていた『マスコミ電話帳』という本を購入し、掲載されている新聞社の代表電話にかたっぱしから連絡をして、アポイントをお願いすることにしました。この手の本には、多くの新聞社や雑誌、テレビ、インターネットメディア、芸能事務所などの連絡先が掲載されていますので、私は以前から利用しています。
しかし、広報担当になった当初は、代表電話から現場の記者に電話をつないでもらうのは容易ではありませんでした。私が所属している企業が有名であれば、簡単に記者につないでもらえるのかもしれませんが、当時の転職先は「知る人ぞ知る」企業、言い換えれば「マスコミ業界では無名企業」だったからです。
前ページの漫画は、転職直後の私が行っていた広報関連の営業電話の一場面です。当時はこのような形で、冷たく電話を切られることは日常茶飯事でした。「こんなことで大丈夫なのだろうか」「広報みたいな仕事、受けなきゃよかった」。話を聞いてもらえずに電話を強引に切られた時には、こんなふうに不安や自分の力不足への情けなさばかりが頭をよぎりました。
もとより覚悟していたこととはいえ、元・大手新聞の記者だった私も、無名の会社に転職し、広報という自分にとってはじめての仕事についてみて、「看板なし」の洗礼を受けたわけです。