「俺はもっと評価されていいはず」募る待遇面への不満
●それなりの給料を得るも、忍耐力の無さがアダに
明治41年(1908年)は、啄木にとっては一大転機の年でした。釧路新聞社を辞め、北海道に残した家族の世話を知人に押しつけ、東京朝日新聞社の校正係の職を得た啄木は、東京に羽ばたいていったのです。本人いわく「小生の文学的運命を小気味よく試験する心算に候」だったそうですが、無責任極まりない……。
朝日新聞社で校正係になった啄木の待遇は、基本給が25円。さらに月5日以上の夜勤日があり、一晩あたり1円の手当がつきました。総計30円(=30万円)以上です。休むと給料が入ってこない契約ですが、現代人の目にはさほど悪い数字には思えません。実際、早稲田大学を首席で卒業した人物……たとえば谷崎潤一郎の弟・精二などの初任給に並ぶ待遇だったそうです。
啄木はカンニングが見つかって中学を中退しているので、学歴はありません。しかし、月給30円は「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」などセンチメンタルな作風の歌人として知られつつあった啄木の評価が上乗せされた数字といえました。
同時期に朝日新聞社で厚遇を受けていた夏目漱石の月給200円(=現代の200万円)に比べるとかなり低いですが、専属ではないので、啄木の長年の夢・小説家としての大成に向けて挑戦も続けられる良い条件だったと思われます。
明治41年11月1日〜12月30日の東京毎日新聞に短期連載した『鳥影』という小説では、1回あたり2,000文字弱で1円(=1万円)の原稿料をもらいます。全59回だったので、啄木が儲けた額は59円(=59万円)ほど。しかし「執筆に苦労するわりには儲からない」と啄木は不満気でした。
新聞社の仕事も不満、小説のギャラにも不満な啄木はすぐにやる気を失い、仕事をしなくなります。啄木には「耐える才能」がなかったのです。