貧しい生活を送った啄木…「働いてない」だけだった!?
「はたらけど はたらけど 猶 わが生活 楽にならざり ぢっと手を見る」
こんな歌を残しているせいで、「ワーキングプアの元祖」などと称される明治の歌人・石川啄木。困窮のなか、数え年27歳で結核死を遂げたのは、たしかに悲惨な人生です。しかし啄木が貧しいのは仕事がないからではなく、それなりの給料の職場にいたのに、まともに働こうとしなかったがゆえ、という事実は案外知られていません。
啄木は、1メートル以上の長さの「借金が返せない言い訳」を書き連ねた手紙を送りつけたことまであります。明治39年(1906年)、啄木が20歳だった時の話で、宛て先は米屋の太田駒吉さん。この手紙は「一言も言い訳できません」と始まり、1メートル33センチの長さに言い訳が連なったのち、最後は「借金は返せません」という結論でした。生産性ゼロ……ダメ人間は言い訳ばかり……これは今も昔も変わりません。若くしてすでに啄木が〝ダメ人間のプロ〞であり、借金で食いつないでいたと推察されます。
「いや、啄木には借金を返済する意思はあったのだ」とする研究者もいます。明治37年(1904年)からの5年間、啄木が詳細な借金メモを残しているためです。それによると、少なくとも全63人から総額1,372円50銭を彼が借りていたことがわかります。当時の1円=現代の1万円として換算すると、借金総額は1,373万円弱!
1年あたりの借金は現代の300万円弱に相当し、人並みに暮らすのには十分な金額です。人から借りた金で生計を立て、たまに会社に顔を出して得たサラリーで遊興費を賄う暮らしをしていた疑惑が拭えません。