「情緒やロマンを伴う不便さ」に豊かさが
■「貧しい豊かさ」しか構想できなかった
あらためて考えてみたいのが、この発想の「貧しさ」です。私たち日本人にとって、入浴という営みは「身体を清潔に保つ」という日常生活上の必要をはるかに超えた過剰な悦楽のために洗練されてきた文化でしょう。高度経済成長当時の人にとってもまた、入浴というのは、一日が終わったという、ささやかだけれども切実な喜びを味わうためのとても大切な時間であったはずです。それをこともあろうに機械によって全自動化して効率化させようとは、なんと豊かさとは縁遠い、貧しい発想でしょうか。
本連載では、1970年前後に日本は「文明化の終了」というフェーズに入りつつあった、ということを指摘しました。まさにその時期にあって開催されたのが大阪万博であり、だからこそそれまでの延長線上とは異なる「新しい進歩」を示すことがテーマとして設定されたわけですが、実際に提案された「進歩」を見るにつけ、その構想の貧しさには心底ガッカリさせられます。
それまでひたすらに「文明化=役に立つこと」によって価値を生み出してきた人々は、その先の未来として「もっと役に立つ、もっと便利なものがある生活」という「貧しい豊かさ」しか構想できなかった、ということなのです。
これはつまり、何を言っているかというと、社会というのは意識的に構想を描かなければ、それまでの慣性と惰性にしたがって延長線上を走りつづけてしまう、ということなのです。大阪万博の当時を生きた人にとって、その時に強く働いていた慣性は「文明化」でした。それは「もっと便利に」「もっと効率的に」「もっと短時間に」というベクトルでの進歩を推し進める力として働きます。
だからこそ、大阪万博で示された「未来の社会」は、風呂が自動になり、台風は水爆で消され、蛇口からジュースが迸り、新聞が壁から出てくるという、ことごとく「快適で便利」なモノとして描かれていました。
しかし、もはやこのような「便利さ」に私たちは大きな豊かさを感じなくなっている一方で、真逆の方向である「情緒やロマンを伴う不便さ」にこそ、人は大きな豊かさを感じるようになってきています。そのような現在を踏まえた上であらためて大阪万博の提案を顧みればみるほど、未来構想ということの難しさと重要性が思い知らされます。
山口周
ライプニッツ 代表
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