(※写真はイメージです/PIXTA)

医療法人寿仁会沖縄セントラル病院理事長である大仲良一氏は著書『ひたすら病める人びとのために(上)』のなかで、昭和中期ごろに経験した、脳外科専門医院設立の過程を振り返っています。

「開業するしかない」自らの脳外科専門医院開設へ

県立那覇病院では、脳外科を開設するための準備は全く進んでいませんでした。二年が経ち、泉崎病院との契約も切れるため那覇病院へ移ろうとしても、まだ何一つないということでした。それは後から考えます、と。致し方ないことだったのかもしれないと思っています。

 

というのも、この頃の沖縄は、一九七一(昭和四六)年に沖縄返還協定が調印され、その後、一九七二(昭和四七)年五月一五日に日本へ復帰するという、大変な時期にあったわけです。琉球政府は解消され、沖縄県という行政単位に変わること、それと同時に、県議会選挙も実施されるなど、県の行政も混乱と多忙を極め、たとえ県立病院とはいえ、そこまで手が回らなかったのだろうと思います。

 

私としては、わざわざ院長直々の招聘でもあり、沖縄の地域医療の今後を背負って立つという気持ちで沖縄に帰ってきたという思いが、このような形で裏切られ、多少の憤りはありましたが、結局は、もう開業する以外にないな、ということに気持ちを切り替えました。

 

ちょうどその頃、私と一緒に泉崎の病院に入った先生が二人おられました。一人は心臓外科医で、もう一人は産婦人科医でした。三人とも、いつまでもそこでくすぶっているわけにいきませんから、それぞれ開業する場所を探し始めました。

 

戦後二十数年が経った沖縄の中心都市とは申せ、那覇市はまだ復興途上にありました。都市計画も道半ばというところで、多くの家屋は粗末な造りですし、道路も未舗装の状態でした。我々三人は約三ヵ月間、各々クリニック開設のための土地探しに奔走しました。

 

候補地数ヵ所の中、市内中心部に程近く、琉球大学保健学部、中央保健所、県立那覇病院等の公的医療機関、さらには市民会館、郵便局、与儀公園などに隣接した、理想の土地を確保することができました。お二方も、それぞれ適当な場所を選定されて、松川と牧港に施設の建設を始めました。

 

私も早速、施設の設計を始め、手狭ながらも四階建てのクリニック建設に着工いたしました。一九七三(昭和四八)年八月に竣工し、院名を「沖縄中央脳神経外科」、標榜科目を脳神経外科・麻酔科として、九月一日、念願の創立を果たしました。

次ページ中央脳神経外科の開業。一日の最高外来患者数752人

※本記事は幻冬舎ゴールドライフオンラインの連載の書籍『ひたすら病める人びとのために(上)』(幻冬舎MC)より一部を抜粋したものです。最新の法令等には対応していない場合がございますので、あらかじめご了承ください。

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