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総合病院の「待合室」での切ない出来事
(あーあ、また太っちゃった……これじゃ先生に怒られちゃう)
肥満外来を受診するために総合病院に来ていた洋子は、処置室に置かれた体重計に乗った途端、その数値にため息をついた。
「前回よりも、5キロほど増加してますね」
測定に立ち会った看護師にそう言われると、洋子はますます頭を抱える。
「では、診察までしばらくお待ちください」
看護師にそう促されて待合室に戻ると、夫の智宏が渋い顔をしながら椅子に座って待っていた――。
洋子が太り始めたのは約13年前、第二子が一歳の誕生日を迎えて離乳が終わってからのこと。それまでは完全母乳で育てていたため、食べても太らないどころか、食べても食べても痩せていくという人生最大のヤセ期だった。
この頃の洋子は、子どもを抱っこする姿勢が多いためか若干猫背気味であったものの、グラマラスな体型で、智宏もまんざらではなかった。むしろ、連れて歩きたいと思うくらいのいい女だったのだ。
ところが、授乳が終わっても、洋子の食事の量はそれまでと変わらなかった。それどころか、自分の食事に加え、子どもの食べ残しを食べてしまうため、食事の量は指数算式に増えていく。
かくして、BMI35.7の肥満(2度)になった洋子は、当然のことながら智宏からは家族としてしか見られないようになってしまったのである。
「体重、どうだった?」
洋子が隣に座るなり、そう切り出す智宏。いちおう、夫として妻の体重や体型は気になっていた。
「前回測定より、プラス5キロだった……」
「そうか。ちゃんと食事メモはしてる?」
「ううん、アメちゃんとかちっちゃなお菓子のたぐいはすぐ忘れちゃう」
「ダメじゃん、それ」
洋子が病院から指導されていることのひとつに、食べたものを子細に記録するというのがあった。著名なライターの書籍によりレコーディング・ダイエットともいわれ、一躍注目を集めたが、要はできる限り正しい飲食の記録をつけ、可視化することにより、健康管理をしていこうという趣旨のものである。
「あと、ついアイソトニック飲料とか乳酸飲料とか飲んじゃう」
「えー、結構カロリー高いよ……なにやってるの? しっかりしてよ」
洋子は、智宏にかなり厳しめに指摘され、そっぽを向いてしまった。このすぐすねる性格が、洋子の肥満を加速させダイエットを停滞させる要因であることは、智宏もよくわかっていたが、今となっては洋子をなだめるのもめんどうくさくなっていた。
「遠藤さーん、遠藤洋子さんどうぞ。ご主人様も一緒にお入りください」
重い空気のまま診察の順番が回ってきた。洋子の後につづけて、智宏も診察室に入った――。
「では、これが運動療法についてのパンフレットになります。よくお読みになって、無理のない程度から始めてくださいね」
洋子は、看護師から運動療法についての説明を一通り受けた。智宏も隣で神妙な面持ちで聞いていた。やはり、食事の記録だけでは肥満は解消しない。まず、何をどれだけ食べているか自覚した上で、適切な食事の量と質を守って食べる、さらにウォーキングをはじめとした有酸素運動をする、これが基本にして王道なのだ。
「運動は苦手なんだよなあ……どうしよ」
洋子はそんな弱気なことを口にする。
「苦手でもやんなきゃいけないでしょ。何言ってるの」
智宏はちょっと呆れたような口ぶりだった。
肥満外来の受付まで戻ると、洋子は事務員から会計ファイルを受け取った。これを会計受付に出したのち精算して今日は終了。
「では、こちらの番号札でお呼びします。掛けてお待ちください」
係員から2558と書かれた番号札を受け取ると、ふたりは電光掲示板が見やすい位置の長椅子に座った。すると、洋子たちの前に座っている女性がいた。線が細く、束ねた髪のうなじから、ほのかにフローラル系の香りが舞う。智宏が、息を飲むようなしぐさをした。実は、智宏は華奢なタイプが好みなのだ。洋子はそんな智宏の姿を見て、またしてもすねるような仕草をした。
(そんなことしてももう、かわいいとは思えないんだけどなあ)
智宏は、洋子に対してそんな思いを抱いている。
ふと、電光掲示板の表示が切り替わり、『2557番までの会計ができます』と案内が出た。
すると、件の女性が立ち上がる。まるでモデルか、タレントかといった容姿だったが、事件はそこから起きる。
数歩歩いたところで、女性はふっとバランスを崩し倒れてしまったのだ。
「え? 大丈夫なの?」
「看護師さん、呼んでこないと」
そんな声が口々に聞かれる中、ひとりの男性が颯爽と現れ女性をふわっとお姫様抱っこしたのだ。これには会計待ちの女子高生が即座に「うわー、かっこいいんだけどー」と反応した。洋子も、同じような面持ちだった。状況を聞きつけた看護師が、車椅子を押してやってきた。
「じゃあ、ゆっくりこちらに乗せてもらえますか?」
男性は慣れた手つきで女性を車椅子に乗せる。
「では、ご主人もう一度外来に戻りましょう」
そう、女性をお姫様抱っこしたのは、女性の夫だったのだ。これには洋子も嫉妬の炎に駆られた。そして、
「いいなあ、私もあんな風にお姫様抱っこされたいなあ……」とつぶやいたのだ。
当然、智宏はそんな洋子を呆れたような目で見た。
「あのさ、そういう風にされたいなら、せめてあと20キロは痩せてくれないと俺の腰がもたないから」
当たり前の指摘に、洋子はいらだちを隠せない。ふと正面を見ると、ガラスに映った女の姿にハッとした。
(これ……わたし? こんな顔しちゃってるの? いじけてすねて、なんだかとっても醜い感じ。イヤだなあ)
洋子は、ようやく自分の今の姿に気がついた。容姿だけではない、心のありかたも相まって、自分が思っていた以上に醜くなっていたのだ。
かくして、壮絶なダイエットが始まった。