黒田家が保有していた油滴天目茶碗は12億円
■「消費されていない」という価値
興味深いのは、このようにして生み出された名品の多くがいまだに大きな経済価値を認められている、ということです。
たとえば2016年9月15日にクリスティーズで行われたオークションでは、黒田家が保有していた油滴天目茶碗が1170万ドル(当時のレートで約12億円)で落札されました。注意しなければならないのは、この価格が決して「消費の対価」ではないということです。ここにゾンバルトの指摘した「シルクのシャツ」と「壮麗な大聖堂」とを分ける本質的な違いの一点が現れています。
私たちはモノの価格を「消費の対価」と考えてしまいがちですが、それは「文明的利便性」に対してだけ成立する認識であって「文化的意味」についてはその限りではありません。先述した油滴天目茶碗は500年ほど前に作られたものですが、それが現存しているということは、すなわち「消費されていない」ということを意味しています。ここに「環境負荷」という課題と「価値創出」という課題のトレードオフを解消する大きなカギがあります。
シエナの大聖堂の鐘塔が建立されたのは700年前、油滴天目茶碗が焼かれたのは400年前ですが、これらの文物はそのあいだに一切の二酸化炭素を出すわけでもなく、それを目にする人、手にする人に人間性に根ざした強い愉悦を与え続けているのです。一方で、21世紀初頭を生きる私たちが心身を耗弱させながら生み出している文物のほとんどが、たった数年でゴミとして廃棄されている現状を顧みれば、私たち人類は本当に進歩していたのか? という疑問すら湧いてきます。
まとめましょう。
すでに需要・空間・人口という三つの有限性を抱えている世界において、大きな経済的価値を創出しようとすれば、それは「文化的価値」という方向をおいて他にないというのが私の考え方です。文明化がすでに終了した世界にあって、これ以上の過剰な文明化が富を生み出すことはありません。
一方で「文化的価値の創出」についてはその限りではありません。意味的価値には有限性がありませんから、無限の価値を生み出すことがこれからも可能です。そしてその価値は資源や環境といった有限性の問題から切り離されているのです。
文明化の終了した世界にあって、人々が人生に求めるのはコンサマトリーな喜びであり文化的豊かさであると考えれば、これからの価値創出は「文明的な豊かさ」から「文化的な豊かさ」へとシフトせざるを得なくなります。
山口周
ライプニッツ 代表