大河ドラマ『青天を衝け』。放送開始以降、高視聴率を維持し、最近では「平岡円四郎ロス」が報じられるなど、世間の注目は高まる一方だ。本記事では奥野宣之氏編訳の書籍「抄訳 渋沢栄一『至誠と努力』人生と仕事、そして富についての私の考え」(実業之日本社)より一部を抜粋し、吉沢亮演じる主人公・渋沢栄一が実際に記した修養論を紹介していく。
渋沢栄一「猫でも杓子でも同じ教育」…今日にも続く日本の社会問題 ※画像はイメージです/PIXTA

「わかったつもり」が不幸を招く

■地図と実地じゃ大違い

 

学問と社会の関係は、例えるなら地図を見るときと実際に歩くときの違いのようなものだ。

 

地図を開いてじっくり見れば、世界はひと目で見渡せる。ひとつの国や都市も、指の間隔くらい。《略》小川や小さな家から土地の高低差や傾斜もパッと見てわかるようにできている。

 

それでも現実と比べると予想外のことが多い。このことを深く考えず、よくわかっているつもりで実際に歩き出すと、右も左もわからず迷ってしまうのだ。

 

山は高いし谷は深い。森林は連なり、川の向こう岸はずっと離れている。それでも道を求めて進んでいくと、高い山が出て来て、いくら登っても頂上に着かない。または、大きな川に行く手を阻まれて途方にくれたり、道路がぐねぐねしていてなかなか前に進まなかったりする。深い谷に入って、「ここから出られるのか?」とヒヤヒヤしたりもする。つまり、いたるところで難所を見つけることになる。

 

もしこのとき、じゅうぶんな信念がなく、大局を見る目がなければどうなるか。ガッカリして諦めてしまい、勇気も湧いてこず、自暴自棄に陥る。あてずっぽうに歩き回っているうちに、不幸な結果になるだろう。

 

■経験をバカにするな

 

最近の若者は何かと老人をバカにする。「学問的じゃない」とか言って、その経験を聞こうともしない。

 

しかし、長い歴史上の出来事や習慣、または経験が生み出したことは非常に貴重なものであり、尊重しなければならないのだ。

 

なるほど、学校で数年かけてやった研究というのは、なかなかものだろう。だが、さらに絶えず熱心に研究し、学問に経験を加えたらどうか。いわゆる「鬼に金棒」であって、上手くいくこと間違いなしだ。

 

 

渋沢 栄一

編訳:奥野 宣之