千栄子が生涯に出演した映画やドラマは216本に
この時に彼女の暴走を止め、命を救ってくれたのは主人一家の飼猫だった。便所に忍び込んできた猫がゴロゴロと喉を鳴らし、体をこすりつけて懐いてくる。
何度追い払っても離れようとせず、機会を逸してしまったという。
あとで冷静になり考えてみれば、なんと馬鹿なことをしでかそうとしたのかと思う。
思い留まらせてくれた猫には感謝した。以前から千栄子はこの猫を可愛がり、猫のほうも家人よりも彼女に懐いていたという。
冷酷な主人や底意地の悪い先輩たち、人間関係に恵まれなかった奉公先で、この猫は唯一の味方でもあった。
以来、猫にはひとしおの思いを抱くようになる。
自宅で自由に動物が飼えるようになってからは、野良猫を見ると放ってはおけなくなって、つい連れて帰ってしまう。だからいつも家には複数の猫がいた。
猫の他に犬も2匹飼っている。おかけで家のなかは、いつも騒がしかった。
いくら言い聞かせても、動物たちはいたずらをする。よく吠えて騒ぐ。しかし、千栄子はそれに怒ることはない。
「こら、あかんでぇ」
と言いながらも、その目は笑っている。
これまでの人生、酷い裏切りに彼女は何度も泣かされてきた。人間とは違って、動物たちは絶対に裏切らない。無垢な視線を向けられると、こちらまで自然に微笑んでしまう。おそらくこの時には、撮影現場ではけして見せることのない表情をしているはずだ。
京都中を探し歩き、ここしかないと惚れ込んだ土地に建てた終のすみ家である。
建物の意匠、襖や障子、庭石の配置まで、すべて自分の好みで選んだ。この世で最も安らげる場所、そこに愛する者たちと住む。人生の最終章で、彼女はついに夢に描いていた幸福を手に入れることができた。
昭和48年(1973)12月22日、浪花千栄子は66歳でこの世を去る。死因は消化管出血ということだが、前日まで誰もそれを予測していなかった突然死である。
それは、当時の平均寿命よりもずっと早い終焉だった。
千栄子が生涯に出演した映画やドラマは216本にもなるという。
そのすべてが、命を削る思いで演じたものばかり。
貧しく不幸な境遇に抗い続けたあげくに、幸福を得るための唯一の手段はこれしかない。と、信じて突き進んだ道。命の炎を燃やしながら女優の仕事に賭か
けてきた。
他人より激しく燃え続けたぶん、早く燃え尽きてしまうのはしょうがない……大往生といえるだろう。
「ああ、疲れた」
死の前夜にはそう言って床に入ったという。
その最後の言葉にも、千栄子の壮絶な人生がしのばれる。
青山 誠
作家
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