「経済合理性」の外側にある問題が残存
現実に社会にはまだまだ解決すべき課題がたくさんあるにもかかわらず、なぜイノベーションは停滞しているのでしょうか?イノベーションは言うまでもなく、社会が抱える課題の解決によって実現します。ということは、社会に課題がある限り、イノベーションに対する要請が尽きることはないはずです。
ここで浮かび上がってくるのが「経済合理性」というキーワードです。
イノベーションは「経済合理性」と「技術的合理性」という2つの制約条件のなかで課題を見つけ、それを解くというゲームです。私たちの社会はすでに数百年にわたってこのゲームを続けているわけですが、時間が経てば経つほど、2つの合理性を満たす解を見いだすことが難しくなるという宿命を背負っていることもまた認めざるを得ません。ここでは、この「経済合理性の限界」がどのようにして確定するのかについて考察してみましょう。
図表を確認してください。
これは社会に存在する問題を「普遍性」と「難易度」のマトリックスで整理したものです。世界に存在する問題をすべてこのマトリックスに投げ込んで整理すると考えてみてください。横軸の普遍性とは「その問題を抱えている人の量」を表します。つまり「普遍性が高い問題」ということは「多くの人が悩んでいる問題」ということになりますし、「普遍性が低い問題」ということは「ごく一部の人が悩んでいる問題」ということになります。
一方で、縦軸の難易度とは「その問題を解くのに必要な資源の量」を表します。「難易度の高い問題」ということは「解決するのに人・モノ・金といった資源がたくさんいる」ということになりますし、「難易度の低い問題」ということは「解決するのに人・モノ・金といった資源が少なくていい」ということを表します。
さて、ビジネスの本質的役割を「社会が抱える問題の解決」だと考えた場合、みなさんであれば、このマトリックスのどの部分から取り組みますか?そう、普通に経済合理性を考えればAのセグメントから手をつけるはずです。なぜならこの領域がもっとも利益率が高いと考えられるからです。
「問題の普遍性が高い」ということは、その問題を抱えている人が相対的にたくさんいる、つまり「市場が大きい」ということです。一方で「問題の難易度が低い」ということは、問題解決にかかる労力が相対的に小さい、つまり「投資が少ない」ということです。
資本は「水が低いところを求めて集まる」のと同様に、利益率の高いところを求めて集まりますから、Aの領域に取り組む人には他の領域に取り組む人よりも資本が集まりやすいことになります。かつてのように資本が希少だった時代において、この差は決定的であったと思われます。
金利がすでにほぼゼロになってしまった現在、資本は過剰供給の状況に陥っており、現在ではむしろ投資機会がボトルネックになっていますが、こんな事態は歴史上、類例のないことで、「長い近代」を形成する2500年のあいだ、資本は常に希少でした。だからこそ、この「希少な資本」を誰が主体となって分配するのかという論点について、資本主義と共産主義のあいだで激しい議論がなされたわけです。
今日、共産主義がイデオロギーとして衰退してしまったのは、イデオロギーそのものの魅力がなくなったというよりも、そのイデオロギーを成立させていた「資本の希少性」という制約条件が解除されてしまったことで、思想そのものの意義が溶解してしまったという点が大きいと思います。