こんな人材が日本にも欲しかった。オードリー・タン。2020年に全世界を襲った新型コロナウイルスの封じ込めに成功した台湾。その中心的な役割を担い、世界のメディアがいま、最も注目するデジタルテクノロジー界の異才が、コロナ対策成功の秘密、デジタルと民主主義、デジタルと教育、AIとイノベーション、そして日本へのメッセージを語る。本連載はオードリー・タン著『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』(プレジデント社)の一部を抜粋し、再編集したものです。

立法院を3週間占拠した「ひまわり学生運動」

初めて政治と関わることになった「ひまわり学生運動」

 

私が初めて政治意識に目覚めたのは11歳の頃です。父が政治学を学ぶためにドイツに行くことになったので、私も1年間、ドイツで生活をしました。

 

当時、父が研究対象としていた人たちは、中国の民主化運動に関わっていた人たちでした。1989年6月4日に天安門事件が起こったあと、ドイツには中国からの多くの亡命者が暮らしていました。彼らは帰る場所のない人たちでした。それでもヨーロッパで学業を続けていたのです。まだ20歳を過ぎたくらいの若い人たちがたくさんいました。

 

天安門事件当時、私はまだ小学生でしたから、テレビニュースを通じて見ていただけです。しかし、学生たちの抗議やデモが突如武力によって弾圧されるのを見て、「平和的な抗議運動を戦車によって抑えつけるべきではない」という思いを抱きました。おそらく世界中のほとんどの人たちが同じような思いを持ったのではないでしょうか。

 

オードリー・タン氏がが政治と直接的に関わる最初のきっかけは、2014年の3月に起こった「ひまわり学生運動」だったという。
オードリー・タン氏がが政治と直接的に関わる最初のきっかけは、2014年の3月に起こった「ひまわり学生運動」だったという。

 

父は彼らを家に呼んで、よく議論をしていました。まだ中学生だった私は、オブザーバーのような立場で、リビングで行われている議論を聞いていました。様々な政治課題、異なる民主制度、そして最終的には「中国人は民主主義を成し遂げられるのか」などがよく交わされていたテーマでした。私自身が何か良い論点を提供できたわけではないのですが、参加者たちが様々な角度から熱心に議論していたのが印象として残っています。

 

父や友人たちが議論していたのは、台湾で野百合学生運動(3月学生運動。1990年、台湾の民主化を求めた学生運動)が起こった頃で、この頃から台湾の人々は「民主主義」を認識し始めたように思います。「どうすれば、私たちの台湾は民主主義を実現できるのか」ということを考え始めたのです。

 

台湾では、国民党による独裁政治の時代が長く続きました。戒厳令が敷かれ、言論弾圧があり、民主化への道はまったく見えていませんでした。しかし、1987年に戒厳令が解除され、翌年に李登輝氏が総統に就任すると、様々な形で民主化の芽が出てきました。

 

その当時、大統領制にするか、それとも半大統領制か、あるいは内閣制か、といった議論がありました。これらは民主主義をよりスムーズに動作させるためのシステム作りの議論でしたが、私には、まるでプログラムを書いているように聞こえました。「こうすればもっとうまくいくよ」「こうすればもっとうまく設計できるよ」などと議論しているような感覚を抱いたのです。

 

私が政治と直接的に関わる最初のきっかけとなったのは、33歳になる直前、2014年の3月に起こった「ひまわり学生運動」でした。当時、台湾と中国との間にサービス貿易協定を締結しようとした政府に対し、学生たちが異を唱え、議会との対話を求めて立法院(日本でいう国会)を約3週間、占拠したのです。

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オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る

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オードリー・タン

プレジデント社

2020年に全世界を襲った新型コロナウイルス(COVID‐19)の封じ込めに、成功した台湾。その中心的な役割を担い、2020年新型コロナウイルス禍においてマスク在庫管理システムを構築、台湾での感染拡大防止に大きな貢献を果たす。…

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