毎月6万円の貯金で暮れには40万円になった
考えてみれば、道頓堀の仕出し料理屋へ奉公に出されて以来、他人の家で肩身の狭い思いをしながら暮らしてきた。女優となり結婚してからも、疎開先の納屋や松竹寮での間借り生活。大勢の芸人たちと同居して、仕事とプライベートの区別がつかない生活を送ってきた。
落ち着かない暮らしには慣れているはずだった。が、この歳になるとどうも、それが辛く感じる。
また、自分がここまで生きた証を残したい。そんな気持ちにもなる年齢だった。
「一国一城の主」と持家を購入することを、人生の目標にする者は多い。
人が生きてきた証として残すものは何だろうか? まず誰もが思い描くのは、やはり「家」なのかもしれない。
ラジオ・ドラマが好評で映画など他の仕事も入るようになると、千栄子はその思いを実現するために、毎月6万円の貯金をするようになった。
昭和27年(1952)の暮れ頃には40万円が貯たまっていたという。当時の大卒初任給は6000円前後、それが令和元年(2019)には、約35倍の21万200円にま
で上昇している。
初任給の上昇率から考えると、現代であれば毎月210万円を貯金して、1400万円を貯めたといった感じだろうか。1年もかからずにこれだけの大金を貯めることができた。それだけ浪花千栄子という女優の価値が、認められていたということだろう。
資金が貯まるとさっそく土地を探した。最初に見たのが、嵐山の天龍寺に隣接した180坪の畑地。知人に教えられて見学し、ひと目で気に入っていたのだが、この時は、持主に売る気がなく断られている。その後、多くの土地を見てまわった。しかし、
「あの土地以外には考えられへん」
嵐山は戦前の大スターだった大河内傳次郎など、別荘や自宅を建てた俳優が好んで住んだ場所である。各映画会社の撮影所が集まる太秦は目と鼻の先にあり、映画の仕事を中心に考えるなら最良の立地だろう。
千栄子にとって嵐山は地の利だけではなく、大きな意味をもつ土地だった。
天外と別れて京都に来てから間もない頃にも、彼女は嵐山を訪れている。この時は死ぬつもりで来たのだという。
渡月橋を渡り、大堰川に沿った小路を上流へとさかのぼって行くと、間もなく川の水深が最も深くなる千鳥ヶ淵に着く。鬱蒼と茂る樹木に囲まれ、深緑に染まる水色には不気味な印象もある。源平の昔には、失恋した建礼門院の侍女がここで身を投げた。以来、昭和初期頃まで自殺の名所として知られる場所だった。
当時はまだそのイメージが強かった。おそらく、千栄子もそれに引き寄せられて行ってしまったのだろう。しかし、寸前のところで思いとどまり、いまもこうして生きている……。女優として復活を果たすことができたのも、あの時、あそこで思いとどまったから。
嵐山は自分を生き返らせ、人生の再スタートを切らせてくれた場所だった。それだけに、あの土地を見つけたのは何かの縁。そう思うと諦められない。