映画と舞台とでは役者の演技に求めるものが違う
市川百々之助との共演で、浪花千栄子の名はそれなりに知られていた。
しかし、ヒロインの役を与えられてスターとして扱われたのは、映画会社の専属女優だったから。フリーランスとなり、映画会社の後ろ盾を失ってからは、仕事を得るのに苦労した。
映画の端役やキャストの降板による急遽の代役など、依頼された仕事は選り好みすることなくすべて受けた。
しかし、この厳しい状況も、女優修業のためには良かったのかもしれない。どんな役でも完璧に演じようと、研究努力を怠らなかった。お定まりの役だけを演じてきた映画会社の専属女優の頃と比べると、芸の幅が広がってきたのを感じる。
月々給料をもらえる専属女優とは違って、収入は不安定になった。4〜5本の映画に出演し、芝居の地方巡業にも参加したが、それだけでは食べていけない。
そこで道頓堀近くにあった「岡嶋」という芝居茶屋に居候しながら、映画や舞台の仕事がない時は、女中の仕事をして生活費の足しにした。
すると、帝国キネマを辞めてから1年が過ぎた頃、彼女の演技が松竹の関係者の目に留まった。松竹傘下の新潮座に招かれて、その興行に参加することになった。
新潮座は大正15年(1926)に結成された新派の劇団で、実力派の人気役者が集まる大阪では最も人気がある劇団だった。それだけに、
「これは、夢ではないやろか」
といった感じで、最初は千栄子も信じられなかったという。
夢のような幸運はさらに続く。新潮座の舞台に慣れてきた頃には、松竹と専属契約を結ぶことになった。
松竹は大手の映画会社であり、劇場経営や演劇興行でも日本最大の企業だった。
明治28年(1895)に大谷竹次郎と白井松次郎の兄弟が、京都・新京極の阪井座を買収したことでその歴史は始まる。
近代的な経営手法を取り入れて潤沢な資金を得ると、劇場を次々に買収して巨大化。京都や大阪、東京などで多数の劇場を傘下に置いて歌舞伎興行を独占し、日本の興行界を支配する存在となる。
大正期に入ると浪花座や中座、角座、朝日座、弁天座といった「浪花五座」も、すべて松竹のものになっていた。
大正12年(1923)には、五座を圧倒するルネッサンス様式の巨大建築「松竹座」も完成する。道頓堀はすっかり松竹の色に染まった感がある。
千栄子は新潮座に続いて、松竹傘下の新声劇や第一劇場などの舞台に立った。
演劇の仕事にもしだいに慣れてくる。当日にリハーサルしてすぐ本番に入る映画の撮影とは違って、演劇は長い舞台稽古を通して作りあげてゆくもの。
また、撮影技法の進化により、フレーミングやカメラアングルを駆使するようになった映画と舞台とでは、役者の演技に求めるものが違ってくる。
それでも、作品を理解し役の人物になり切って演じるという、演技の基本は変わらない。千栄子は実力派の役者たちを相手に練習するうちに、時々の動作や目線、セリフを発するタイミングなど様々なことを吸収していった。芸を磨くには最良の環境である。