「アルツハイマー型認知症」の初期の段階だったが…
「父さん、最近ちょっと物忘れがひどいんじゃないか」。Aさんが息子Bさんにそう言われたのは、ちょうど80歳を迎えたときです。Bさんに連れられて病院へ行ったところ、アルツハイマー型認知症と診断されました。このときはまだ初期の段階で、日常生活に支障はありませんでした。
ところが3年後、Aさんは近所を徘徊するようになったのです。症状の程度が進行したことから、Bさんは父を施設に入所させることにしました。
Aさんは地主で、借地やアパートを複数所有していますので、資金面の問題はありません。
今まではAさんが不動産管理の主導権を持っていたので、Bさんはいずれ来る相続のことはあまり考えていませんでした。しかし父が施設に入ることになり、それに伴いアパートの管理も代行するとなれば、現実を直視せざるを得ません。今後自分が相続したら、どれだけの税金を支払うことになるのか。Bさんはひどく心配になりました。
アパートはすでに老朽化が進んでいました。そこでBさんは、建物の建っていない土地には新たにアパートを建てることで相続税対策を実施しつつ、古びてきている既存のアパートは大規模修繕を行うことにしました。
まとまったお金が必要になりますので、Bさんは銀行から資金を借り入れようとしたのですが、Aさんが施設に入所していて、判断能力が低下していることを理由に断られてしまいました。
インターネットで調べてみると、本人が認知症などで契約ができないような場合には成年後見人が必要だとわかりました。さっそくBさんは家庭裁判所に向かい、成年後見人を選任してもらう手続きを行いました。
財産規模が大きいと、司法書士が成年後見人に選任され
手続きから4ヵ月が経ち、ようやくAさんの成年後見人が決まりました。当初、Bさん自身が父の成年後見人になりたいと希望していたのですが、Aさんの財産規模が大きいこともあり、裁判所が選任したのはC司法書士でした。
司法書士等の専門家が成年後見人に選任されると、本人の財産から報酬を支払わなければなりません。Aさんの資産規模は大きいので、C司法書士の報酬は月々5万円と決められました。また、財産管理についてもすべてC司法書士が行うので、Aさんの預金などはすべてC司法書士が管理することになりました。
BさんはC司法書士に、アパートの大規模修繕のことや、土地にアパートを建築して相続税対策を実施したい希望を伝えました。
ところが「アパートの修繕については必要なものであれば対応することもできるが、大規模な修繕は難しい。新たにアパートを建てるようなことはできない」と返されてしまいました。
それに「そもそも銀行から融資を受けるようなことは、成年後見人が本人に代わってできるようなことではない」とも言われてしまったのです。
財産を守れない…これは本当に「家族のあるべき姿」?
また、Bさんには子どもが2人いて、Aさんはずいぶんと可愛がっていました。家族で食事に出かけたときはいつもAさんが支払っていましたし、孫にもいつもお小遣いをあげていました。
こういったことは引き続きできるのか、とC司法書士に確認しましたが「ダメです」と一言。たとえ今までAさんがそのようにしていたとしても、C司法書士としては本人の財産を勝手に処分するようなことはできないとのことでした。
C司法書士の言っていることはわかるのですが、これは本当に家族のあるべき姿なのでしょうか? Bさんは疑問に思いました。
そこでBさんは裁判所にも相談してみました。C司法書士には成年後見人を辞めてもらって、自分が財産を管理できないかという相談です。
しかしC司法書士が背任行為をしたわけでもなく、今さら単に辞めてほしいという理由では解任することはできませんでした。
こんなことであれば、成年後見人なんか付けてもらわなかったほうがよかったのではないか…とBさんは途方にくれてしまいました。
資産を柔軟に活用するには「認知症対策」が必要
資産規模は人によって違いますが、上記の事例は成年後見制度でよくあるトラブルです。成年後見人は本人の財産を管理したり、必要であれば処分したりということは可能ですが、積極的に運用するようなことはNGです。
不動産を売却するような処分行為にしても、最低限きちんとした理由が必要です。たとえば、施設に入居するのにお金が必要なので不動産を売却するなどといったものです。
すでに認知症が進行して、Aさんのように判断能力が低下したり失われてしまっていると、今回のように家庭裁判所に成年後見人を選任してもらう手続きしか取りようがありません。
ですが、まだ判断能力がしっかりあるような状態、認知症が発症していたとしても軽度で、まだ判断能力が著しく低下しているとはいえないような状態であれば、場合によっては上記のようなトラブルには至らなくて済む「認知症対策」ができることがあります。
後見人、報酬額ともに自ら決められる「任意後見契約」
【①任意後見契約】
認知症対策の1つは、任意後見契約です。将来、本人の判断能力が著しく低下してしまった、あるいはなくなってしまった場合に備えて、後見人になってもらう人を事前に契約で選任しておける制度のことです。
この契約は必ず「公正証書」といって公証役場で作成しなくてはなりませんが、任意後見契約を事前に締結しておけば、後見人になる人を本人が自分自身で選ぶことができます。
今回のケースで言えば、AさんとBさんが事前に任意後見契約を締結していれば、将来、Bさんを確実に後見人にすることができたのです。さらに後見人の報酬も自由に決めることができるので、無報酬にしてAさんの負担を減らすようなことも可能でした。
ただし、任意後見の場合は必ず、家庭裁判所に「後見監督人」という“後見人を監督する立場の人”がつけられますし、後見監督人が専門職の場合はやはり報酬が発生してしまいます。
また、通常の成年後見人と同じように任意後見人も、後見監督人を介してにはなりますが、間接的に裁判所に監督されることにはなりますので、本人の財産について管理する以外のことは原則としてできません。
積極的な財産運用が可能になる「民事信託」
【②民事信託】
認知症対策の方法としてもう1つ考えられるのが民事信託です。比較的新しい制度になりますし、扱える専門家も限られているので、名前は聞いたことがあっても内容まで知っている人は多くありません。
この民事信託も、任意後見契約のように本人の判断能力がなくなる前に、主に契約によって設定します。
ある特定の財産を自分自身(委託者)が、自分の財産を信頼できる人(受託者)に託して名義を移転し、信託契約で定めた一定の目的に従って「管理(守る)」「活用(活かす)」「承継(遺す)」を行ってもらいます。そして、信託の利益を享受する人(受益者)に信託財産を利用させたり、運用益などを給付したりする制度です。
たとえば今回では、アパート経営者Aさんの認知症が軽度(民事信託契約の内容が理解できる程度の判断能力は必要)のうちに将来に備えて、Bさんにアパートを信託します。このとき、受益者もAさんとしておけば、アパートから発生する賃料収入は引き続きAさんのものとすることが可能です。
Aさんの判断能力がなくなってしまった場合でも、アパートの名義はBさんに移っているので、大規模修繕などに支障をきたすことがありません。また、民事信託の契約のなかで定めておけば、土地の上に収益用のアパートを建設するような資産運用についてもBさんに任せることができます。
「遺言の代用」としても使える民事信託の特徴
民事信託の特徴として、契約を締結した時点で財産の名義は受託者に移りますが、委託者と受益者が同一人物である限りは、贈与税や不動産取得税の課税の問題は出てきません。よって、最終的には財産そのものを、相続人等の「財産を残したい人」に承継して、その目的を達成するので、遺言の代用として利用することもできます。
任意後見を含む後見制度では、財産の運用については消極的なのですが、民事信託であれば契約の内容に従って、本人の認知症発症後であっても相続税対策などの財産の運用についても行うことが可能です。
注意点としては、自由度が高い制度になるので、複雑なスキームを組みすぎると当事者の理解や他の相続人などの関係者の理解が得にくくなることや、1つ歯車が狂うと機能しなくなってしまうことがあげられます。
一見万能のような感じもしてしまいますが、民事信託は契約で定めた財産(信託財産)についてのみ効力が及びますので、すべての財産の管理処分運用権を受託者が持つものではありません。
また後見制度であれば、本人の身上監護権といって、施設に入所するための契約などを後見人が代理で行うことができますが、民事信託には身上監護権はありません。あくまで特定の財産について後見制度より柔軟な対応ができるものということです。
超高齢化社会となった現在の日本では、65歳以上の4人に1人が認知症もしくは認知症予備軍となっています。
Aさんのように認知症が進行してしまうと、裁判所に成年後見人を選任してもらう以外の方法以外取ることができなくなってしまいます。財産の管理などのことももちろんですが、本人や家族のあり方を考えて、できるうちに対策を取ることを強くおすすめします。
認知症対策としては後見制度と民事信託、どちらか一方だけ使うというよりは、それぞれのよい所と悪い所を補うように併用するとよいでしょう。いずれにせよ、それぞれの特徴をよく理解している専門家に一度相談してみてください。
佐伯 知哉
司法書士さえき事務所 所長
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