「東京なら高度な大学教育が受けられる」という勘違い
社会はつねに変化しています。求められる医療も変わります。これから医師を目指す皆さんは、社会の変化に敏感でなければなりません。そのためには歴史を学ぶことです。未来は過去の延長線上にあるからです。歴史を勉強すると、社会の見え方が変わってきます。
「東京一極集中」、「地方の衰退」。メディアがしばしば取り上げるテーマです。教育も例外ではありません。「東京にはいい大学があり、学問をするには東京に行かねばならない」とお考えの方が多いのではないでしょうか。
たしかに、わが国には大学教育の地域格差が厳然として存在します。東京には東京大学や慶應義塾大学のような有名な大学があります。東京の医学部のレベルは高いと考えるのもやむを得ないかもしれません。
ところが、必ずしもそうとは言えないのです。医学の世界では、「実力の評価」は比較的容易です。なぜなら、医学界では、英語で論文を発表するという全世界で確立した評価基準があるからです。
その最たるものがノーベル生理学・医学賞です。わが国からは過去に4人が受賞していますが、最難関の東京大学医学部出身者はいません。
この傾向は医学分野に限った話ではありません。自然科学系で過去に21人がノーベル賞を受賞していますが、東京大学出身者は4人だけです。京都大学の8人に遠く及びません(2019年)。
2018年度、東京大学が受け取った運営費交付金は811億円、京都大学の557億円の1.5倍です。ノーベル賞に関して、東京大学の生産性は京都大学の3割程度という見方も可能です。
一方、文学賞や平和賞など人文系の受賞者3名は全員が東京大学卒です。このような分野では、自然科学の論文に相当する評価基準が確立しておらず、政治力が影響するからかもしれません。
話を医学に戻しましょう。医学界における「西高東低」の傾向はトップ研究者に限った話ではありません。臨床研究でも格差があります。
少し古くなりますが、我々のチームが大学病院の臨床研究の実績を比較した研究結果をご紹介しましょう。
図表1は2009年1月から2012年1月までの間に、全国の大学病院を対象に、所属する医師100人当たりが発表した臨床論文の数を示しています。
上位陣には京都大学、名古屋大学、大阪大学など西日本の大学が名を連ねます。東京大学の順位は5位。臨床論文の生産性は京都大学の70%、名古屋大学の83%です。実はわが国の医療の格差は「東京対地方」ではなく、「西高東低」なのです。
原因は、西日本出身者が主導した「明治時代の政策」
なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか。私は、わが国の近代史を反映していると考えています。どういうことでしょうか。
この問題については、拙著『日本の医療格差は9倍 医師不足の真実』(光文社新書)で詳述しました。ご興味のある方はお読みください。ここでは概要をご説明しましょう。
わが国では、大学とは明治政府が富国強兵を目的に設立したものから始まります(※1)。これは欧米先進国とは対照的です。
欧州最古の大学として知られるイタリアのボローニャ大学は、自由都市国家の市民たちによって開設されました。米国のハーバード大学は、17世紀に清教徒派の牧師が寄贈した財産と蔵書をもとに活動が始まりましたし、英国のオックスフォード大学は、12世紀に英国王ヘンリー2世が英国人の学生がパリ大学で学ぶことを禁じたため、パリから移住してきた学生が集まってできたことに由来します(※2)。
わが国の大学は、1877年(明治10年)に東京開成学校と東京医学校が合併し、東京大学が創設されたことから始まります。このとき、法・理・文の三学部、東京医学校が改組され、医学部が設置されました。
1886年(明治19年)3月には、帝国大学令が公布されます。わが国は、国を挙げて、高等教育の充実に尽力します。
では、この時期の社会情勢は、どんな感じだったのでしょうか。前年3月には福沢諭吉が『脱亜論』を発表し(※3)、4月には日本と清国の間に天津条約が結ばれます。1884年(明治17年)に朝鮮で起こった甲申政変(李氏朝鮮へのクーデター)の事後処理です。日本人が自信をつけ、朝鮮半島、中国などアジアの周辺諸国へ進出し始めた時期です。
また、1885年(明治18年)12月には、旧来の太政官制度が廃止され、内閣制度が発足します。初代の総理大臣は長州藩出身の伊藤博文です。さらに、1886年(明治19年)1月には北海道庁が設置されます。北海道の開拓をリードしたのは薩摩藩出身者です。明治維新以来の動乱が収まり、薩長出身者を中心に国内の体制整備が進みます。
帝国大学令が公布されたのは、このような時期です。急成長する日本社会は、一人でも多くの専門職を必要としていたのでしょう。そのためには、高等教育システムの確立が必要でした。これが、わが国の大学教育の始まりです。
わが国では、帝国大学令公布以降、1939年(昭和14年)までに合計9つの帝国大学ができました。国内の7つ以外に、1924年(大正13年)にソウル、1928年(昭和3年)には台北にも帝国大学が設立されます。
大学は帝国大学だけではありません。明治から戦前までの期間に、他の官立や県立大学、さらに私立大学を入れれば、国内に53、外地に8つの大学ができました。先人たちは、随分と頑張って大学を立ち上げ続けたものです。
多額の予算をもらっている「一流の国立大学」の正体
このような大学の中で、私が注目しているのは、戦前に設立された20の官立(国立)大学です。このうち、終戦時に廃校になった神宮皇學館大学を除く19大学は、現在も一流の国立大学としての地位を保っています。
大学のランクを評価する際に、国から配分される予算の額を用いることがあります。国立大学の場合は運営費交付金です。この評価の前提には、運営交付金の額が大きい大学ほど、多くのスタッフを抱え、さまざまな活動ができるので、レベルが高いとされています。
わが国には86の国立大学法人が存在します。2018年度予算で、運営費交付金の総額は1兆204億円です。図表2は、そのランキングです。
運営交付金の支給額の上位19大学のうち、18大学が戦前に設立された官立大学を前身に持ちます。このランキングから漏れたのは、一橋大学(旧東京商科大学)だけです。理系学部のない大学です。
一橋大学の代わりにランキングに入っているのは鹿児島大学です。一橋大学と違い、医学部や工学部など理系学部を有します。
では、なぜ鹿児島大学が、ここに出てくるのでしょうか。これも歴史が関係します。鹿児島大学の歴史は古いのです。前身は旧薩摩藩の藩校造士館、および旧第七高等学校です。旧制第七高等学校は、1901年(明治34年)に、わが国で7番目に設立された旧制高校、俗に言うナンバースクールです。
東京大学の教養学部の前身は旧制第一高等学校。ナンバースクールは、エリートが進学する学校でした。鹿児島には、このように他の地区に先駆けて、高等教育機関が設立されています。もちろん、これは明治政府を仕切っていたのが、薩長を中心とした勢力であったためでしょう。
ただ、鹿児島は、完全な勝ち組ではありませんでした。1877年(明治10年)の西南戦争で、西郷隆盛率いる旧士族たちは、新政府軍に敗れ去っているからです。このことは、鹿児島の教育にも大きく影響しているようです(※4)。第1から第8まであるナンバースクールの所在地のうち、戦前に官立大学が設置されなかったのは鹿児島だけです。鹿児島出身者は「もし、西南戦争で薩摩が負けなければ、鹿児島には鹿児島帝国大学ができていただろう」と言います。
意外に思われるかも知れませんが、このように、わが国の高度教育は、明治から戦前にかけての歴史の影響が、現在も残っているのです。ただ、これはある意味で当然です。教育制度を含む近代日本の礎が、明治から戦前にかけて完成しているのですから。
【脚注】
※1 わが国の大学を知るには東大の歴史を学ぶとよいでしょう。立花隆の『天皇と東大 大日本帝国の生と死』(文藝春秋)がお勧めです。
※2 大学の歴史を議論する際、科学の歴史を考慮しなければなりません。米国の物理学者で、1979年にノーベル賞を受賞したスティーブン・ワインバーグの『科学の発見』(文藝春秋)は良書です。
※3 福沢諭吉の著作は明治の日本人を理解する上で有用です。斎藤孝による『学問のすすめ 現代語訳』『現代語訳福翁自伝』(いずれも、ちくま新書)は、現代人でも読みやすくお勧めです。
※4 毀誉褒貶ありますが、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』(全10巻)は医師を目指す若者に是非読んでもらいたい本です。日本の近代化を考えるきっかけになります。
上 昌広
内科医/医療ガバナンス研究所理事長
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