「AIには創造的な仕事ができない」とは考えていない
その基準となるのが「社会のルール」といわれるものです。社会の仕組みを知らない子供にバスの運転をさせるようなことはしないでしょう。私たちの社会は、子供にそうした仕事を与えるようなことはしません。日本のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に似たような場面が出てきます。
このアニメのストーリーは、主人公の少年が人型の兵器に乗って謎の敵と戦うというものですが、ただ、それは非常に特殊なケースであって、現実社会においては非常に強い制限がかかっています。もしも社会の倫理観や価値観を逸脱するようなことをすれば、その責任を問われなければならないでしょう。社会の価値を変えるようなことがあれば、説明責任を果たさなければなりません。
本当に責任能力がある人であれば、最終的に私たちはその人に戦車を運転させるかもしれません。同様に、ディープラーニングを社会のどの位置に置くかについては、社会全体でしっかり議論する必要があると思います。
どんな技術についても言えることですが、こういった視点で見ると、ディープラーニングはひょっとすると核兵器ほどの怖さはないのかもしれません。私は、核兵器がもたらす脅威のほうがAIのそれよりはるかに大きいように思います。
競争原理を捨てて、公共の価値を生み出すことを求める
ここまで「AIがいくら進化しても、人間にしかできない仕事がある」という話をしてきました。この「人間にしかできない仕事」と言ったとき、「クリエイティブ(創造的)な仕事」を想起する人は多いかもしれません。
しかし、私は「AIには創造的な仕事ができない」とは考えていません。たとえば、AIと囲碁を打てば、人間が今まで考えもしなかったような打ち方をAIはたくさん出してきます。しかし、人間はやがてその打ち方に慣れていきます。そのため、AIが進化する度に、人間社会は常に「AIは創造力に欠ける。残された問題は創造力である」と定義しがちです。要するに、創造力の定義というものは、状況に応じて常に変化するということです。
中世にローマ数字で計算していた時代は、掛け算は非常に難解なものでした。でも私たちは、掛け算ができるからといって「すごい」とか「素晴らしい」とは言いません。それどころか、人間が行うよりコンピュータに計算させたほうが格段に速いことを知っています。人間の手で行われていたことが機械に置き換わっても、それを人間が拒否するようなことはありません。
このように「創造力」の定義は日々変化し、機器は常に新しい素材を提供してくれます。そのため、私たち自身の創造力の可能性もまた日々高まっているのです。この状況は相乗効果、あるいは相互学習のようなもので、非常に素晴らしいものだと思います。