「嫌われたくない」をあきらめてみる
人生であきらめにくいハードル、6つ目は「嫌われたくない」です。
いきなりですが、僕はTwitterやヤフコメでよく叩かれます。アンチに「乞食(こじき)」だなんだと言われるのにはもう慣れてしまったし、ヤフコメで僕に対して謎の怒りをぶつけてくる人や炎上しているさまを見るのは、もはや1つの娯楽として楽しんでいます。
でも、もし僕が人に嫌われないように気にし出したら、どうなると思います? たぶん、奢られることをやめなきゃいけないし、Twitterで自由につぶやけなくなるし、そもそもTwitterなんてやめなきゃいけない。これ、すごく自分の自由度を狭せばめてバカバカしいことなんですよね。
現実問題として、すべての人に好かれるなんて無理です。それなのに、嫌われたくないがために、見ず知らずの人まで含めて世の中の顔色を窺(うかが)ってたら、一生ラクに豊かになんて生きられません。
ただでさえ、固定費下げてしんどい労働を避けようとする「あきらめ戦略」って、一般的には理解されやすい見映えのいい生き方ではないじゃないですか。当然ディスられたりする可能性もあるわけで、そんなときに他人が吐き出してくる感情のゴミなんて真に受けてたら、自分の心地良い生き方を貫くなんてできない。
そもそも他人の感情なんて自分からはコントロールできないんだから、「嫌わないでもらう」なんて無理なわけで、「人から嫌われたくない」なんて欲求は捨て置いたほうがいいのです。
たとえば、Twitterとかで「来月友人の結婚式だわ~。だるいし3万円払いたくねー」みたいなツイートを見かけることがあるんですけど、僕なら「じゃあ行かなきゃよくね?」って思うんですよね。「ご祝儀に3万円払うのきつい」って負担に感じているのに「周囲の目や誘った相手がどう思うか」を気にして無理して行く人の気持ちは全然理解できない。欠席すれば、その分時間が自由に使えてお金も減らないし疲れない。どう考えても行かないほうが幸せなんだから。
もちろんそこで欠席することで、「何あいつ友達大切じゃないの?」と友人の怒りを買い、その辺の人間関係をあきらめざるを得ないかもしれない。とはいえ結婚式をあきらめても失うものといえば、せいぜい3万円の価値ほども自分が認めていない友人ぐらいのものでしょう。結局、「結婚式に行きたくないからやーめた」となかなか言えないのは、それによって何を失うのかを理解できていないから、怖いだけなんですよね。
でも決断する際に、常にその決断によって何をあきらめなくてはいけないかを意識したうえで、「実は大したものを失うわけではないんだ」とわかれば、合理的な判断ができます。「本当は嫌だけど〜しなくちゃいけない」―そういう局面になったとき、世の常識だとか周囲の目、世間体なんて、ふんわりした価値基準で測るのはやめましょう。明確に自分が失うものだけを勘定に入れて「あきらめる」に値するのかどうかを判断してみたらいいわけです。
人間の脳って結構簡単だから、「なんか炎上してるw ウケるw」「めっちゃ怒ってるじゃんw ウケるw」って言ってたら、本当にウケるに変換されるようにできてるんですよね。
だから僕は悩みや困ったことがあったら、「細かいことはわからないけど、とりあえずウケてみたら?」という荒療治を推奨しています。これ結構Twitterでも評判良くて、「語尾に何でも『ウケる』をつけたら深刻にならなくなった」「悩むのがバカらしくなった」なんて声ももらっています。僕の理論の中では割と再現性があるっぽいんで、おすすめです。
何事も、真っ向から戦おうとしたらダメです。だから、一般的に不快な出来事があっても、TwitterでネタにするとかYouTubeのネタにするとか、そういう風に決めておくと、どんどんネタが増えて仲良くなれる人も増えるかもしれない。
他人に嫌われるのってすごくつらいことのように言われがちだけど、別に殴られたり刺されたりっていうのは稀(まれ)だし、意外と好かれようとするコストよりも実害はないんですよ。
プロ奢ラレヤー