本記事では、事故被害者救済に程遠い保険制度の改正に、消極的な国の現状と裁判官の実態を見ていきます。

交通事故の賠償問題の要因は「国・裁判所の怠慢」

交通事故被害者が、保険会社との間で賠償金の交渉がまとまらないとか、自賠責や紛争処理機構の後遺障害認定に不服がある場合、裁判所に救済を求めることになる。裁判である。

 

我が国の交通事故賠償を考えたとき、自賠責保険や任意保険の制度とそれを運用する保険会社のやり方に問題があることは確かである。しかしながら、そのような制度と運用を監督しリードするはずの国や裁判所の怠慢が保険会社のやり方を追認し、被害者救済の観点をますますないがしろにさせている側面は否めない。

 

前著から5年を経て、その間のさまざまな交通事故事案や問題に取り組んできた中で、筆者も含め我がサリュがその意を強くしているのは、矛盾や問題を知りながらもなかなか動こうとしない国や裁判所にこそ、問題の本質があるのではないかということである。

司法と立法がその気になれば、一見動かざる山も動く

国や裁判所がその気になれば、それまで壁と思われていたものも崩れ、世の中が一気に変わることがある。

 

たとえば貸金業界では以前は出資法と利息制限法の2つの法律があり、出資法の上限30%(年率)と利息制限法の上限(元本10万円未満の場合20%、10万円以上100万円未満の場合18%、100万円以上の場合15%)のダブルスタンダードが黙認されていた。いわゆるグレーソーン金利の問題だが、消費者金融の多くは出資法の上限の30%に設定することで莫大な利益を上げ、一方で多重債務者の増加や過酷な取り立てによる自殺者の増加などが起き、深刻な社会問題になっていたのである。

 

2006年1月、最高裁の判決において、たとえ債務者がグレーゾーン金利を任意に支払ったとしても、それが強制を受けたものである場合には支払いの義務はないとする判断が下された。これを受けて金融庁が貸金業規制法の改正を行い、出資法の上限を20%に引き下げ、グレーゾーン金利は撤廃されたのである。

 

これによって多くの多重債務者が過重な債務から解放されただけでなく、利息の過払いの返還請求が不当利得として認められるようになった。また、消費者金融会社の倒産や統合が進むなど業界全体が大きく変わったことは記憶に新しい。裁判所の判断が国を動かし、社会を変えていった一つの例だ。かように司法と立法がその気になれば一見動かざる山も動くのである。

相応の賠償も得られないことがある「自賠責保険」

被害者が費用はもとより、特に時間的、精神的な負担を承知のうえで、わざわざ裁判所に判断を仰ぐのは、自賠責や保険会社のやり方や後遺障害認定などが納得できないためである。

 

交通事故裁判において裁判所には大きく分けて次の2つの役割があると考える。

 

一つは交通事故賠償制度全体の問題や矛盾を指摘し、より大きな視点で世の中に有益になるような判断をすること。もう一つは個別事案に対して柔軟かつ最適なケースバイケースの判断を下すことである。

 

現状、いずれに対しても裁判所の姿勢は十分なものとは考えられない。むしろ増えつつある交通事故裁判を嫌がる傾向さえ見られる。もちろん、既存障害のある被害者の賠償請求を認めたさいたま地裁の判決などは大きな前進であるが・・・。

 

特に自賠責保険においては何度も触れたように、社会保障的役割が強く、最低補償の意味合いが強い。そのため彼らの言からすると、公平、迅速さを担保するために、どうしても画一的な判断にならざるを得ないという。実際、自賠責保険がそのような性質を持つ以上、場合によっては相応の賠償も得られないことがあることを保険会社自ら明言しているのである。

問題の本質は、裁判所の交通事故事件の画一的大量処理

そこで、交通事故被害者が、最後に救済を求めるのが裁判所である。相応の賠償を裁判所に認めてもらうよう、原告は、リスクを背負って、勇気を出して訴訟に踏み切るのである。

 

しかし、実際のところどうか? 裁判所は自賠責保険の認定結果が正しいものであるという前提から審理を始めるのである。おかしなところがあるという前提からは始まらないのだ。それゆえ自賠責保険の判断を裁判で覆すのは簡単なことではない。

 

通常の裁判は被告の認否がなされて、初めて追加の立証をするように求められる。ところが交通事故裁判に限っては、いまだに保険会社側の認否がなされていない段階であっても、追加の立証をするようにとはっきりと言ってくる裁判官もいるくらいである。

 

交通事故以外の訴訟で、事実の認否を待たずして原告に立証が要求されるケースなどあるだろうか?

 

交通事故事件について、裁判官と弁護士の意見交換会が各地で行われているが、そのときの裁判官の回答からも、裁判所の考え方は明らかだ。私が意見交換会において、自賠責と労災の後遺障害の判断が食い違う場合、裁判所はどちらを優先するのか、と質問したのに対し、ある裁判官は自賠責の判断だと回答し、自賠責の判断を争うほうがその根拠を主張立証すべきものだと考えていると回答したのだ。

 

自賠責の認定を重視する。これが、裁判所の考え方なのである。これを裏付けるように、裁判所は高次脳機能障害について、医療現場ではずっと以前からその存在が認められていたにもかかわらず、2001年に自賠責保険が後遺障害として認定した後の2002年になって初めて交通事故による後遺障害として認めたといわれている。

 

裁判所がここまで自賠責保険を重視する理由はどこにあるのだろうか。それは、一つには裁判所に法医学的知見がないことが挙げられるが、それ以上に、裁判所も交通事故事件を大量処理、画一処理しているからではないかと思える。

 

裁判所が自賠責の判断を重視し、労働能力喪失率も一律に判断するのは、裁判所が後遺障害の程度や労働能力喪失率を個別判断するのを避けるためではないのだろうか。

 

この裁判所における交通事故事件の画一的大量処理。これこそが、交通事故裁判の問題の本質であると考える。

被害者を「悪者」のように扱う裁判官が増えている!?

このような裁判所の矛盾やいい加減さは、近年特に顕著になってきていると感じている。もちろん中には被害者の立場に立って親身に対応する裁判官も存在する。しかしそれは非常に少なく、むしろ賠償金を過剰にせしめようとしている悪者のように被害者を扱い、冷淡で酷な判決や和解を提示する裁判官が増えている。

 

被害者が賠償金をせしめようとしていると思われるような判決が増えている…? (画像はイメージです/PIXTA)
被害者が賠償金をせしめようとしていると思われるような判決が増えている…?
(画像はイメージです/PIXTA)

 

交通事故事件などのような細かい事件は興味がなく面倒だからと、まともに向き合ってくれない裁判官も多いし、和解に応じなければ判決はもっと不利になるぞと明確に態度に出す裁判官も多いのが実態である。なお、和解とは、裁判がある程度進んだ段階で、暫定的に裁判官が現在の考えを示し、双方が納得すれば判決までいく前に裁判が終了する、裁判官が仲裁する訴訟における示談のようなものである。

 

いずれにしても全体に感じるのは、ここ数年特に裁判所と裁判官の劣化が進んでいるということだ。増え続ける訴訟で裁判官自身がオーバーワークになっていると指摘もあるが、裁判所の役割と可能性を考えると、あまりにも現実とのギャップにがく然としてしまうことも多いのである。

「事件を早く終わらせたい」・・・裁判所の魂胆が丸見え

以下にその例を挙げてみよう。

 

Aさん(20歳代女性)がバイク、加害者がトラックでの事故。バイクがトラックを追い越した直後に、バイクがバランスを失って転倒。トラックがそれに乗り上げ100メートル引きずってバイクが炎上した事案である。この事故でAさんは下肢切断、下半身不随、全身火傷の重傷を負った。加害者は自分に過失はないと主張、物損を賠償するように被害者に請求した。

 

我々は反訴の意向であると裁判所に伝えたところ「やるならやってもいいけれど、どうやって相手の過失を立証するの?」という発言。人身事故については過失の立証責任が自賠法により転換されており、加害者側が過失のないことを立証しなくてはならないとされている。

 

この件の場合はトラックの運転手のほうが自分に過失がないことを証明しなければならない。それにもかかわらずこの発言である。とにかく事件を早く終わらせたいという裁判所の魂胆が丸見えである。

本記事は、2015年12月21日刊行の書籍『虚像のトライアングル』から抜粋したものです。その後の税制改正等、最新の内容には対応していない可能性もございますので、あらかじめご了承ください。

虚像のトライアングル

虚像のトライアングル

平岡 将人

幻冬舎メディアコンサルティング

自賠責保険が誕生し、我が国の自動車保険の体制が生まれて約60年、損害保険会社と国、そして裁判所というトライアングルが交通事故被害者の救済の形を作り上げ、被害者救済に貢献してきたが、現在、その完成された構図の中で各…

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