怪しい男が持ってきた契約書。さっそく開いてみると…
熊田は日頃から賢一のところに出入りしている税理士だという。賢一は、父親が営んでいたアパートや駐車場、農地などの不動産賃貸業を譲り受けている。その会計を委託されているのがこの熊田ということらしい。
熊田の説明によると、父親の認知症がこれ以上悪化する前に、すべての財産を家族信託にしたいと賢一が考えているようだ。そうしないと、万一のときに、財産の適正な管理や承継、処分ができなくなる可能性があるという。なので、一日も早く信託契約書に博史の実印を押してほしい――これが熊田の要求だった。
英二夫妻は、実家を二世帯住宅にリフォームして母親の信子と同居しており、兄の賢一は家を出て、父の博史が保有する賃貸物件の一室で暮らしていた。契約には父本人の実印が必要となるが、それを信子が管理していたので、税理士が実家を訪れた――という流れであった。
話を聞いた英二は「家族信託なんて初めて聞いたし、いきなり契約書に実印を押せというのは、どうかと思います。母とも相談しなければなりませんし、そもそも兄にも話を聞かなければ納得できないので、本日のところは、この契約書と資料を置いて、いったんお引き取り願えませんか」と強い口調で言い、いったん熊田を追い返した。
熊田が玄関から出て行くのを確認した英二は、「新手の詐欺かもしれない」と怪しみ、契約書の内容にしっかり目を通した。
家族信託の契約書には「委託者兼受益者は博史、受託者は賢一」と記されている。
財産については、「賢一にすべての不動産と、現預金の半分を受託させ、その管理・運用・処分は、すべて賢一に任せる」と書かれている。さらに博史の死後「残余財産があった場合、すべて長男(つまり賢一)に帰属させる」と書かれていた。
「要するに、父さんの全財産を兄さんが管理するっていうことか。そんなこと、母さんにも相談しないで勝手に決めたのかよ。こんな契約書にハンコを押すわけにはいかないな」
■税理士のゴリ押しで兄弟関係が不穏に
その日の夜、熊田から英二に電話が入った。
「書類に目を通していただけましたか。博史さんが元気なうちに手続きを済ませなければならないので、1週間後に実家へ公証人を呼び、公正証書契約を締結したいと考えています。その日までに印鑑を用意しておいてください」
まるでゴリ押しのような言い方に、英二は少しむっとした。