敏腕社長だった母の唯一のミス。それは…
「ある日、母から70歳を迎えたら引退したいと相談されました。当時、僕は母の会社で専務として働いていました。母は『父のときはもめごともあったから、早めに事業承継の準備をしたい』と言い出したのです。僕もいずれ会社を継ぐ覚悟でいましたので、母の意図はすぐに承諾しました。そして母が70歳を迎えた年、予定通り会社の株をすべて金庫株という形で譲り(※会社にとっては自社株買いということになる)、母は経営からきっぱり退いたのです」
太一さんは、その経緯を話してくれました。
「お母さまの決断力と行動力には見習うべきものがありますね」
私も初江さんの経営センスと人柄に感服しました。
「後に、母からあっさり退いた理由について聞かされました。父が亡くなったときのもめ事を繰り返したくなかったというのです。自分が元気なうちに一線を退くことで事業承継を円滑に進め、死後も子どもたちにもめてほしくないので、きちんと遺言を書いたと」
「ご主人の相続でもめ事を経験された奥さまが遺言を書かれるケースは、非常に多くあります。お母さまはとても賢明な判断をされましたね。ただ、問題はこの遺言が『自筆証書遺言』だったことですね……」
私は、太一さんに自筆証書遺言の問題点について説明しました。
自筆証書遺言とは、文字通り遺言者が自分で書く遺言です。公正証書遺言と違って、作成にお金がかからず、証人もいらないので気軽に作成できるメリットがあります。一方で、遺言をそのまま自宅に保存していると、第三者の手で改ざんされる危険があること、厳重に保管しすぎると紛失や不発見のリスクがあるといったデメリットが挙げられます。
今回のケースでは、もちろん太一さんが改ざんしたわけではありません。しかし、その疑いをかけられてしまったのは、「自筆証書遺言だったからこそ」と言えるでしょう。
■母の異変で、皆が財産をもらえる期待感から「争族」へ
経営から退いてから10年以上たち、初江も歳を取って体調を崩すことも増えた。足腰も不自由になり、聡明だった脳も少しずつ衰え、物忘れが多くなってきた。